「視聴者から指摘 正しいお辞儀」/①礼節とは?②正しさやまともさ、根拠を装い、「機嫌」を取らせる亡霊たち
スッキリとかいう朝のニュース番組で今見て思ったこと。
「視聴者から指摘 正しいお辞儀」なるコーナーを5分ほどやってて、
その中身は、
「おじぎの角度がなっていない」だとか
「正しいおじぎはこうだ」だとか。
しょーもなっ。。
私は何も、礼節が必要ないだとか、敬語を知らなくていいとか、所作はどうでもいいという立場ではない。
むしろ逆で、多分私ほど日常の所作や礼節に気を付けていた人はほぼいない、というかおそらく昔の職場とか先輩とかに聞いても、
同年代で一番できていたのは誰か?と聞いて、自分を挙げる人は3割以上はいたと思う。
たった1~2分話しただけの初対面の人にもよく言われたものだ。
さっきの話に戻って、何がしょうもないかというと、
正しいお辞儀
のような表現を使って、他人に指摘したり指示する人間に、その本質を分かってできている人など100%いない。ということだ。
彼らは礼節に絶対はなく、相対的、流動的であることも体得できていない。
最近youtubeでネタ要員として見かけるようになった、礼節が完璧なはずなのに、なぜか滑稽でうざい マナー講師おばはんとか、
正しい歌い方 などと称してある界隈の時代遅れの歌唱法を絶対視している自称ボーカルトレーナー だとか、
毎年の採用人員数を満たすために、ならず者をたくさん入れなければならず、どんなバカでも手っ取り早くそれなりに仕立てなければならない、
軍・自衛隊・警察官学校で教えられる、正しい〇〇等もそれに近い。
礼節とは表現だ。 それは歌とかにも似ていて、
正確さとか、基準がどうとかより、雰囲気や印象などのほうが絶対的に重要である。
それは、お辞儀の角度だとか、フレーズ一致とかのバカげた低レベルの基準などでは断じてなく、(それは最低限他人から指摘されない免罪符にしかならない。それができたとしても水面下で不快に思う人はいくらでもいるw)
声のトーンだとか、表情の細かい変化だとか、相手の機微に反応できているかとか、場や相手、そこにいる人たちのマナーや常識の基準をどの程度推測して、自分のキャラクターを踏まえて出力できているか?
が重要だということに、彼らは何年生きても気づくことができない。
彼らは、いつか自分が染まっていた界隈で教えられた、「これが礼節だ!」というバカげた様式を、得意げに他人に強制し、それができているかどうかで、推し量ろうとする。 やばい書いてて笑ってしまう・・
では、そんなことさえ何年生きていても体得できない彼らは、なぜわざわざテレビ局に投稿や電話までして、そんな滑稽な「ご指導」をしてしまうのか?
彼らに何が起こっているのか?といえば、
それは、結局、
彼らに染み付きこだわっているものとは、
真の意味での礼節などでは一切なくて、
いつかの若かりし頃、自分がその当時生きのびるために、
仕方なく自分より強い人間や集団の圧力で、
ただ意味もさっっぱり分からないまま、
間抜け面でやらされた、
ただの動きの癖でしかなく、
それをしつこく監視され指導され
強制&矯正され
「ようし、貴様も少しサマになってきたな」と犬のように褒められ、
または、「あらぁ、少しは人様に恥ずかしくないようになったわね」と親や姑や親族に言われるなどして、
認められたように感じて、貧しい彼らはそれに満足してしまい、
その本質を疑ったり吟味したり検証したり
あの人のたたずまいって素敵だな、なんでだろう?
自分と何が違うんだろう?といった向上心を持つにも至らず、
結局のところ、これで認められたんだし生きていけるし、
それを使って今度は後輩にも偉そうにできるし、、、
つまるところ脳がそれを正当化することにしたからだ。
だが、人間は誰しも、人によっては本当に微粒子レベルしか残っていなかったとしても、真実を感じる感性が残っているものだ。
愚かで貧しかった彼らといえど、
自分が人生の中で、
監視、指導、強制、矯正されたものたちで、自分が立派になったとは、心の底からは思えないのだ。 何歳になっても。死ぬまで。一生。
本当のところは、みすぼらしく時代遅れで面倒くささを振りまくだけのガラクタだと感じ、怯えているのだ。
だけど、それを認めてしまったら、過去を否定し、自信の土台が崩れ去ることになるから、無意識の暗渠にしまい込む。
心と肉体の底に流れるドブ川
自分の肉体内部でさえ、それは同じことだ。それゆえ、しぶとく溜まり続けて、いずれ溢れると、とんでもない悪臭として表れてくるのである。ドブ川が、誰かに押し付けることができない性質である以上、それは自分の生き方で「溜めないように」する以外にないことになる。溜めないようにする というのは、流れを知り、流れの中に つつましく身を置く ということである。慎ましいというのは、世間的な謙虚とか、見栄えとか、清貧wといった表面上のことでなく、流れの「許容量」であるとか、「浄化力」であるとか、「方向」とか「勢い」とか「ナチュラルさ」とか「持続可能性」とかであり、それらと自分の関係性の総体を自然なものにしていく在り方である。
自分の中の臭いものに気付いたとき、人は2種類の対処法をたどる。1つは、全身と生き方の変革によって、どこかに過剰に押し付けた負担であったり、流れの悪さを良くして、ドブ川をたまらないようにし、苦しみながらも(症状・めんげん・好転反応・アレルギー・がん・吐露・懺悔・etc)少しずつ浄化していく正攻法。2つは、生き方を変えずに、ドブ川を隠す方法 である。ほとんどの、他人、社会、周囲の評価によってしか、己の在り方を確認できない人は、必然的に・原理的にドブ川を隠す方向に進む。他人も社会も周囲も、それを隠しており、隠す方法を教えあい、隠しているか審査し、隠す方法を賞賛しあっているのだから、その中に身を置いて評価されようとすれば、そうなるのは当然のことだ。笑ってしまう話である。長い人生において、ドブ川を隠しきれる わけがあろうか?そのドブ川はいずれ、肉体と精神の奥に封じ込め、作り込んだ薄暗い暗渠のマンホールを吹き飛ばして、己の全身にドブ水をまき散らし、真実を思い知らせる日を待っているだけだ。老化と醜さと健康問題と家庭問題とは、つまりそういうことである。
なんという悲劇だろうか。
そこで、彼らは自分と向き合うことをせずに、他人に対して、それも自分が反撃されない安全圏から、反撃されない他人を選び、自分がされたことを監視、指導、強制、矯正 しようとする。
そして、それに成功すれば、「やはり俺、私の言っていることは正しいのだな」「彼らも勉強になったろう」などと、束の間の正当化を図れるのだ。
そしてそれに成功すると、自己効力感が増し、ご機嫌がよくなる。
ただし、それは一定期間たてばまた自身を無くして、また誰かにそれをして・・ の繰り返しでしか維持できないものだ。
ふう、話が長くなったけど、つまり言いたいことはいつも言ってることと同じ。
教育でも 指導でも 大人になるでも マナーでも 人間として~~とか 一切どれでもなくて、 実はそんなことと反対の 何の役にもたたない、自分らのために他人を消耗させるだけの
怨念だよそれ ってこと~
お亡くなりくださいませ