(続)「ウザい娘とキモい息子」ーキモさとウザさを乗り越えた男女が作る未来

先ほど「キモい男とウザい女」という記事を書いた。

社会の水面下で男女性により何が起こっているかといえば、

男の仕事を筆頭とした頑張りを、女はキモさフィルターにかけて見ており、

女のたち振る舞いを、男はウザさフィルターで見ている

つまり、お互いのメインの基準でお互いを見下しあっている。

男の頑張りを女が認めないのは、キモさのせいであり、

女の生き様を男が尊敬できないのは、ウザさのせいである。

女は美の基準1つで、(滑稽なキモ男なんだからそれしかないんでしょ、女に相手にされないんでしょ?認めてほしいんだったらそれくらい頑張れば?)と男のどんな業績をも屁のように扱い、

男はそれ以外の基準で、(無能で何もできない女がただ若いだけのくせにチヤホヤされて態度がでかいな。これだから糞女は)と、女の人任せと無能を苦々しく感じている。女性の社会進出?都合のよい弱さを振りかざしていないで男と同じ基準でやってみろ!と。


そして、それらがいつ迄たっても変わらないのは、

男が自分のキモさに気づかないまま(気づかない仕組みになっているのだが)、女に認められるために、または受け入れさせるために前記事で書いたAとDを強めるか女の唱える基準に媚びるしか方法を知らないからであり、

女が自分のウザさを改善できないのは、オンナと若さを売ることが最も費用対効果が高いせいで、人間的な成長を疎かにしたまま、有利な男を見つけることだけに人生を割き、付き合う男の能力値を自分の魅力と思い込むスリカエの習性が強固だからだ。


何よりも滑稽なのは、 見下し合っていた男女が、そういった社会でなんとかつがいを見つけ、自分の子供として、キモい男とウザい女を産んでいることだ。

男の娘はあれほど嫌悪していたウザい女となり、

女の息子は、あれほど見下していたキモい男となるのである。

さらにいえば、キモい男とウザい女の親は、その度合いに比例しておおよそ機能不全である。

母親は息子がキモく育たないように、父親は娘がウザく育たないようにする装置でもある。

子ができるまでに自身の醜い部分に向き合いが甘いと、

遺伝子的にも環境的にも、

母親は息子がキモく育て、父親が娘をウザく育ててしまうわけだ。


近い未来、 キモくない男とウザくない女が増えていく。

新人類は、共通して、「人間」として相手を扱うという、当たり前のベースを大事にしつつ、駆け引き的な要素の小さい恋愛・性愛をする。

女のからだを、男の仕組み(社会制度・能力・甲斐性)によって受け入れさせるのではなく、女のからだによって、男の仕組み(社会制度・能力・甲斐性)を買うのでもない。

かといって、すべての人に価値がある、だの、人間性が良ければ肉体的魅力は関係ない、 といった欺瞞でもない。

今あるそういった家系を見よ。

それらは競争から逃げて子孫に負担を押しつけつつ、自分らを高尚な人間と奢り、都合のよいストーリーで安住するための、最も下劣な行為であることが分かる。

例外なく、そういった家庭の子孫は苦しんでいる。

父母のお花畑的な世界が、夫婦の間だけでしか通用しないことを。

そこで育った自分が恩恵を受けていないどころか、社会との齟齬に苦しんでいることを。

そういった子供が、できちゃった婚でポンっと生まれた、しかし生き物としては強いヤンキーに苦しまされる光景を見たことがあるだろう。

夫婦とは、出産とは、おままごとでも、夫婦や祖父母の道具でもない。

生き物としての仕組みを棚に上げて、立派な思考だけで作り上げるものなどでは断じてない。

そこには厳しい競争が、選別作用がまだまだずっと続いていくことだろう。

その厳しさをひとりひとりが乗り越えて、ウザさとキモさを乗り越えたとき、

そのとき、ようやく、人間としての生きやすい社会になることだろう。


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