外の言葉と内の言葉/生命に繋がる内の言葉を守り育てる
人と人の間で流通している言葉を「外の言葉」とするならば、
人には「内の言葉」と呼べるものもある。
人それぞれ、感じ方、捉え方が違うように、
言語的な処理、言語と感覚の結びつき、等も違う
内の言葉は、生命の管轄と近い。
本能、感情、感覚と近く、それらを表現したり、外と調整したりする。
外の言葉と内の言葉で、重なるものもあれば重ならないものもある。
多くの場合、赤ちゃんや幼児が覚えやすいものは内の言葉と重なり、
大学や社会で覚えるようなものは重ならない。
音楽や民謡等の「音」そのものに大きな作用があるものは内の言葉と近く、
「音」から離れ、論理的な演算に用いられる「記号」に近いもの(法律、プログラム言語、その他専門用語等)は内の言葉から最も離れた存在だ。
外の言葉を使うほど、「大人」の「社会」で肯定されやすい。
論理的な演算、誤解を防ぐコミュニケーション、
客観的な定義力、感覚の差を埋める「規格」として、
外の言葉は優れている。
社会がここまで大きくなったのが、
外の言葉のおかげであることにも疑う余地はない。
そうした社会で、人は成長し、社会と交わるほどに外の言葉を覚えていく。
外の言葉を覚えるほどに、内の言葉も次第に置き換えられていく。
外の言葉が内の言葉の領域を侵食しはじめる。
そうすると何が起こるのか?
自分の内側で起こる生命的な反応と、客観・理性をうまく結びつけることができなくなっていく。
本能、感情、感覚、それらと理性の結びつきがぎこちなくなり、
それらを伝えるコミュニケーションに支障が出てくる。
分かりやすい例でいえば、気持ち(※社会的な「都合」の意味ではない)が分からなくなり、子供や動物やお年寄りが離れていく、
親ならば自分の子供のことが分からなくなる、といったことが起きていく。
それだけではなく、内の言葉が壊れた人間は、何か新しいことを覚えるときや、新しい環境に適応することができなくなっていく。
人が何かを習得するときには、必ず内の言葉の助けが必要だから。
内の言葉を使わずに、何かを覚えられる、覚えたと思っているならば、
それは腑に落とすことなく小手先・口先の処理で済ませている場合だけだ。
大人になる、社会に出るというのは、
内の言葉を使わなくなることでも、外の言葉に置き換えることでもない。
抑圧することでも、幼い自分や他人を未熟だったと思うことでもなければ、
外の言葉をたくさん覚えて四六時中使うこと、でもない。
外の言葉は、内の言葉を守り育てるためにあり、
内の言葉が苦手な、論理性・客観性・普遍性・広く浅く長く伝える力
をサポートし、自分も人も幸せにするためにあることに気づきなさい。