属性や型や居場所を纏い武装する対価は、それらへの服従である。
今日も街を歩くと、サラリーマン風を演じる人を何人も見かける。いや、実際サラリーマンなのだが。
彼らの動き方をただ見ているだけで勝手に感じられてしまう。そのパターンが。法則が。原理が。
歩くスピード。鞄の持ち方。忙しそうなしぐさ。よく見る時計。休憩中の肩の落とし方。仕事終わりの解放感漂う様子すら様式美のようだ。
かつての自分もそうであった。
彼らはサラリーマンの行動様式に身をゆだねることで、ある種の同調効果によって、連帯感にも似たエネルギーを得、日々の空虚さや不安を埋めているのである。
街に何者でもなく存在することは恐怖である。
「何か正当なことをしている人」感や「社会で認められている人感」が欲しくてたまらない。
だからそれぞれの方法でそれを纏う。実際にその立場に身を寄せる。
いけてる若者 学生 サラリーマン 主婦 老人 犬の散歩 なんかの仕事中の人
そうやっていれば、他人はその個人の背後に「威力」を感じ取ってくれる。
彼彼女は一般的な〇〇であるから、敵に回すと、〇〇の集団を敵に回す可能性がある、あるいは〇〇属性の他の人ともぶつかるかも、ということを他人に暗示させるのだ。
学生のボッチ問題も原理は同じようなものである。
それにより、彼彼女は一種の武力を纏い、つかの間の自信を得て今日を生きるのである。
しかし、それは依存であって、タダで気軽に、、とはいかないものだ。
そこに属してそれを演じる以上、それらへの「貢献」とか「服従」を要求されるわけである。
無理せず貢献できていればまだいいが、貢献できぬものは「服従」を要求される。
学生の友達グループだろうが、会社だろうが、主婦友だろうが同じである。
こうして、彼彼女らは、今日今の身を守るための武装と引き換えに、がんじがらめの人生を過ごしていくのである。