会得とは師がいなかったようになること
すべての師を名乗る偽物へ教えておこう。
純度の高い、何かの会得とは、師の存在なんてなかったように、弟子によってそれが表現されることである。
お前らの弟子、教え子、なんでもいいや。。
なぜそいつらの大半が師を追い越さないか?
様々な理由があるけど、一番デカいのは
師が師でいたいから、開祖が開祖でいたいから、追い抜かれたくないから、感謝されたいから、「師のおかげ」と言ってほしいから、など師の欲(+師と弟子の共依存)によるものである。
セミナー屋を筆頭とした、有料で何かを教えること、それを生業とすることの限界がここにある。(金と商売と地位名誉が絡むほど上記の必要性が増すため)
最良の教えとは、弟子が自ら素晴らしいものを発見したかのような感覚を持ってやり始めることであり、=師の介入を気づかせない ことだ。次善としては、師の都合(広義の欲)が入っているが、師のおかげという必要がない関係であることだ。このブログなどがそうかな。
もちろん、師の側はそのとき起こったことが見えている。
大半の師もどきは、そのときに、余計な言葉や態度によって、自らの存在感や功績をアピールしてしまい、弟子の神秘的な変容の瞬間を台無しにしてしまうのだ。
人は教えによって気づくのではない。
教えの貢献度は、通常5%か、むしろマイナスつまり邪魔してるwどんなに師が素晴らしく高くともせいぜい20%といったところだろう。
それを自覚せよ。
最も純度の高い教えが功を奏したとき、弟子の感覚としては、教えは存在感を消し、弟子は自らの体験に沿う形でそれを発見し、自らの人生、人格を変容させ、自らそれをやりはじめる。
そして、嬉しそうに「なんか掴んだかも」とか、「なんかできるようになっちゃった」とか、
ときにはまるで最初から当たり前にできていたかのような「そうですよね~」などと対等な口を利いてくるだろう。
一番最悪のパターンは、それを他のもっと劣悪な師もどきに、成果を掻っ攫われることなw 明らかに自分の影響でで変化したのに、結果が出た後なぜか他の奴の成果になるパターンな。これが一番ウザいし、みんなが無念を感じることかもしれない。
掻っ攫っていく奴ってのは、いかにも「私を崇めよ」みたいなやつとか「褒めたりおかげを言わないと面倒になる奴」とかその人が属している組織で人間関係の圧力を受けている場合な。
例を出すなら故・星野仙一みたいなやつ。
ごめんな仙君死んだあとあれこれ言って。でも君はそういう奴だよ。
選手としての実績は認めるが、指導者としては無能ででしゃばりで成果を横取りし権力で下を威圧してオーナー等には調子よくヘコヘコして立場をもらい、なんだかんだ名将の立場を手に入れて、うまいことやって死んでった。
実力、能力、人格的にノムさんとかとは天と地の差なのにね。
人は弱くてずるいので、上手くいったのは誰のおかげしようか?ってなったときに無意識に計算するもんなのよ。御礼を誰にどれくらいいうか、誰に気づかされたことにするか、誰のおかげとして整理するか。とかね。
そして言葉と態度は、真実と離れ、処世的に一番有利な言動になるわけ。
だから、これまでの世では、そういわれやすい人・関係で無ければ、せっかくの恩も無下にされるから、みんなまずそういう処世術に嵌っていったのだよ。
最後によくあるのが、弟子に逆恨みされるパターンとか、当てつけにされるパターン。弟子が師を超えたり自分を確立しようとするときに、頭にちらつく師を振り払うために、混乱してあることないこと言われたり、理由なく嫌われたり、「せいにされる」やつね。 これもよくあるから。
師の存在が大きければ大きいほど。弟子がそこから抜けようとすればするほどそれが起こる。そのときには弟子に深く伝わったものと伝わってなかったこと(弟子に都合よく解釈されていて、それに自分も気づかなかったこと)などが一番よくわかる瞬間でもある。
巣立ちの足蹴りは本当に心苦しいものだよ。
でも、そういうのも全部含めて、あなたが感謝されずとも、それでいいのだよ。それが教え子にとっての一番の成功なのだから。
「私への感謝、、忘れてしまってもいい。この子たちが、できるようになあれ~~ マハリ~ クマハ~ リタ♪ ヤンバラ ヤンヤンヤン♪」
そこで「おいおい誰のおかげで・・」などと思い出したらそれは師の未熟さ以外の何物でもない。まあそう思うのは世間の平均としては当たり前だけど、「師」の基準としては、ってことね。
「師匠なんていません。私たち最初からできてましたけど?」
「うん!そうだよね!」
大丈夫、師は一生感謝されないわけじゃない。
まず1つ目、本当に価値あったことは死の間際に必ず浮かぶものだから。
2つ目、それは弟子自身が師になって、自然と感謝することになるから。
感謝する範囲は、師として体験した範囲、と同じ。
つまり最高の感謝は、弟子自身が自分がかつてやったものと同水準で弟子にそれをできたときに、自然と起こるのである。
「こんな魔法みたいなこと、奇蹟みたいなことをしていたのか、あのとき、師は。そして今自分がそれを弟子にできて、それを目撃している、いつか私の弟子もこんな体験をする日が来るのかもしれない、こんな体験をできるなら、今弟子に安い感謝されなくても 全然いいな!」って。
まさに因果応報やね~
まとめ
・良き師は、弟子が死ぬ間際に浮かぶが、偽物は浮かばない
・良き師はでしゃばらず、偽物はでしゃばる。
・良き師は手柄より弟子の気づきを優先するが、偽物は手柄にしようとする
・良き師は無防備で手柄をよく盗まれるが、偽物は手柄が何より大事なので、他人に取られないように周到に振舞う。
・良き師は共依存に陥らぬよう気を付ける。偽物は共依存にはまらせる。
・良き師は弟子に巣立ちの足蹴りをされるが、偽物はされない。
・良き師は弟子をいつかの良き師にするが、偽物は偽物の師を作り出す。
わしはそれら全部踏まえて、「師」になろうとしないことをお勧めするけどね? 本物の師であることは苦しいよ~ まったくワリに合わん。ま、でも人生で一度くらいは根を上げるまでやってみたらいい そこまでいくにも一生じゃ足りん場合が多いけど。
俺は自然体で生きて、言いたいこと言って、結果的に「師」になる瞬間もある、くらいでいいんじゃない?と思うね