統計をマスターして、捨てろ
統計及び確率の考え方は現代において、極めて汎用性のと有用性があり、人生で何をするにしても、情報の取捨選択に役立つ。
統計「学」じゃないよ。統計の「考え方」ね。
別にアカデミックさにこだわる必要はない。
不必要に検定とかしだしたらアカデミックに嵌りすぎねw
アリストテレス症候群に気を付けてww
さて、これほど有用な統計なんだけれども、実は「行動」の決定根拠に統計を使うことは、大して役に立たないどころか、間違いを犯させる。
特に個人の人生の選択においては、統計や確率で選ばないほうがいい。
統計や確率は、行動ではなく、あくまで情報収集の段階で、情報の性質を吟味することに役立てるだけにしたほうがいい。
なぜか?
それは、統計はあらゆるものを数値化してイメージ化する上では極めて万能なのだが、
その統計の万能性は、個別性をすべて捨象しているから可能になるからだ。
個別性を悪魔に売って、数値を買う、ということだ。
個々人の人生においては、個別性は何より重要である。
生きる意味のすべての前提だからだ。
よく世の中に、こういった本が出回っている。
×統計ではAです → Aの行動をすべきです
そういう本のタイトルは大体「現代科学がみつけた」「方法/習慣」とかなww よくあるっしょ?
こいつらは大体自分でやってないし、やってたとしても大して成果は出せてない。
なぜならば、肝心なものが足りてないからだ。
×統計ではAです → Aの行動をすべきです の間に足りないもの。
Aになる「機序・成り行き・必然性・蓋然性」の検証をしたのかい?
統計はそういう、間を何も埋めてくれない。
解析元のデータと、調べたい事項の数値だけだ。
その2つが出たからといって、元のデータがいかに丁寧に集計されたとしても、 その間の「機序・成り行き・必然性・蓋然性」の理解については、何も教えてくれることはないのである。
そこを人が「気付き」「試し」「確かめ」「理解する」するというプロセスが必要なのは、昔から何も変わってやいない。
そこが埋まることがなければ、人の行動を導くだけの道しるべとはならない。
そこが抜け落ちたまま、安易に「科学的」だの「根拠」だのと語り、まして本や情報として売ろうとしたりするのは、詐欺にも似た行為である。
連中は都合よく統計を使い「〇〇は科学的に否定されています」などという。 あのなあ?
「統計で否定されている」ものだけが「非科学的」なのではなく、「統計でしか」現れていないものもまた、十二分に非科学的なんだよ。
統計やデータなどという、一つか二つの武器を得ただけで、すぐに科学を取り扱えるような面をしたがる似非科学人間は一度、頭じゃなくて胸に手を当てて己を省みよ。
そして、そういう強欲または蒙昧無知な人間によって、「科学」や「理屈」や「根拠」は今日も歪められ、
あいもかわらず身にならないことを毎日やるはめになり、それを他人にも伝染させ、不満・不平・不正・不幸につながるのである。
まとめよう。
統計は汎用性が高く、知恵を見つける前段階の、情報を取捨選択する道しるべとしては有用なものだ。
だが、統計や確率を都合よく解釈したり、安易に行動に繋げると失敗する。
それは、一つには個別性を捨象していること。
もう一つは、統計は「道中」を何も教えてくれない、という理由からだ。
統計の考え方を自由自在に使いこなせるようになりなさい。
そして、その限界を知り、執着を取り、最後には捨てなさい。