道徳的観念が個人を救うことがない理由
そういやこれも個別テーマでまだやってないね。結構大きい問題だし。
まず、個々人の認識には驚くべき差がある、という前提から。
近年は少しは理解が進んできたと思うけど、人の一人ひとりには驚くほどの違いがある。身体的特徴もそうだけど、観念、それからその前提はもっとそう。
例えば、「人を殺してはいけない」というテーマ
この言葉自体の認識はほぼ同じでも、その背景、理由、さらにはその前提、身体的反応、のレベルでは、全くと言っていいほど違う。
恐ろしいでしょ? 俺は恐ろしいなって思う。
それをしたら一生良心の呵責で幸せになれないから、とか人が殺しあう社会よりは殺さない社会で生きたいから、と感じれる人も多い一方、結構多くの人が、「捕まるから」とか「生活が破たんするから」とか「殺人犯扱いされるから」というだけだったりする。
極めてナチュラルに、罪悪感が欠如していたりする。そのナチュラルさこそが最も恐ろしく今日まで、社会が踏み込めていない、どうにもできていない領域なのである。
それに対し、道徳だの倫理だの教育だの 押しつけがましく強制的強権的な方法によって「矯正」を試みたが、それらの方法では結局、まともな人間の罪悪感覚と同水準へ導くことは不可能なのである。
多くの場合彼らは表面上、周りが騒いで、自分を見る目がきつくなったから、生きにくくなって、態度を変えると、それが収まる、だからそれを罪悪感なのかな?とすり替えて処理しているにすぎず、
各方面はこの恐ろしい事実についてなんとか、それでお茶を濁しているのだ。
さらに恐ろしいことには、それを取り扱う警察であるとか裁判所とか公務員のほとんどが、正常な感覚であるか?といわれるとそれも極めて疑わしく、私の推論では、もっと深遠な法則により彼らは引き合っているように思える。
すなわち、それらを取り扱う側も潜在的に同類の問題を抱えている可能性が平均よりはるかに高いと考える。
脱線につき話を戻す。
そういった社会で、なんとか試行錯誤しながら、お茶を濁してきたわけだが、お茶をにごすためにmoreベターな方法、それが倫理や道徳の類の本質である。
こうしてできた倫理や道徳が、その定着性、効用を何でみているかといえば、それは「社会全体での犯罪者の減少であったり、争いの減少」である。
ここで勘違いしてはいけない。
あくまで「社会全体で」俯瞰してみたときの、「件数」こそが、倫理や道徳の主眼というか、存在理由であるということ。
乱暴に言えば、面倒事の件数さえ減れば個人の救済や論理整合性や人間性など知ったこっちゃない がより正確な理解である。
ここが誤魔化されるのは、道徳倫理の説得力を少しでも落とさないためである。そのための嘘は許される、見逃される相場になっているというわけだ。
歴史上、時の権力が時の思想家や宗教家を招聘し、権力側の要望を満たしつつ、ある程度民を納得させうるものを作らせてきたわけだ。同時に出世中の思想家・宗教家としては、ライバルを出し抜いて天下のお墨付きを得られる絶好のチャンスであった。両者の都合は入り混じり、どちらの嘘と狡猾もお互いに見逃しあい、むしろ称えあう形で、ビジネスライクに「提携」したのである。
勘違いしてほしくないのは、俺の感想は「まあそんなもんじゃない?それも必要といえばそうじゃない?」であり、それ自体の成り行きを強くは否定しない。
ただし、「思想とか倫理、論理、生き方、ヒューマニズムとかの基準でいえば出来損ないのゴミ」と答えるというだけのことだ。それを混ぜて欲張って人を幸せにする等の大層なものに見せかけるな、ということである。
これをごまかしてきたことが、多くの個人に煮え湯を飲まし、道徳と倫理という社会安定装置を、強引に個人に内面化させ、不必要に自分を責め、数々の精神疾患まわりの問題を生み出した元凶である。
結論:道徳的観念が個人を救うことはない。現在の社会の道徳水準は、件数ありきのmorebetterな仮設物。そんな粗雑なものを個人レベルに内面化すると精神疾患に繋がる。
さらに発展的建設的提言は(これだけでも偉人何人分だろ?)また別に書こう。