TGI D-RISEを知ってますか?
「TGI D-RISE(Dライズ)」というプロバスケットボールチームが存在したことを知っていますか?
2010-2014の4シーズン、栃木(T)をホーム・群馬(G)・茨城(I)を活動エリアとして「若く、才能とモチベーションの高い選手を育成し、トップレベルの選手を輩出すること」を目指して設立されたチームです。
リンク栃木ブレックス(現:宇都宮ブレックス)の下部育成チーム(サテライトのようなチーム)として活動した、僕がプロバスケ界に入るきっかけとなったチームです。
Bリーグが誕生し、チームがプロ化され、ユースチームの設立を推進している現状を考えると2010年にサテライトチームを生み出し4シーズン運営したブレックスは、すごいことをやっていたんだなと思います。
下部育成チームという扱いながらも、1つのプロチームとして当時の2部リーグJBL2/NBDLに参入ていました。
僕のプロとしてのキャリアもここからスタートしました。
間違いなく、このチームが生まれたからこそ、今の僕があります。
そして、同じようにDライズを経てキャリアを確立していった選手たちが多くいます。
当時のリーグ(JBL)では8チームが活動していましたが、企業チームが大半を占め、本当に一握りのトップ選手でないと所属できないリーグでした。
特にルーキーへの門戸は狭く、トップクラスのエリート選手でないとチームに加入できませんでした。
そんな狭き門を目指す若い選手たちのために、給料は少ないが(ゼロもあり)、練習・試合をする環境を提供し、プロ選手として活動・成長するチャンスを与えたのがDライズです。
そして、今でもカテゴリーを問わず多くの選手が現役でプレーし、現役を離れた選手たちもそれぞれの分野で活躍しています。
そんな姿を見て、本当に存在意義のあったチームなんだと改めて感じています。
Dライズを離れて数年後、あるチームスタッフに、
「Dライズは特別なチームだった」と言われたことがあります。
自分が所属したチームへの言葉にうれしい気持ちとともに、「中の人」だった立場で自分には見えていないものがあるのではと思い、しっかりと振り返るべきチームだったのだと気づかされ、この記事を書くきっかけになりました。
1つのプロチームとして存在しながらも、あくまで下部組織であり、ブレックスへの選手個人としてのコールアップを目指し、お互いにライバル意識の強いギラギラしたチームでした。
各選手が、より良い環境、より良いチーム、より良い報酬を目指しながら、それと同時にチームとしても活動する独特の雰囲気があるチームでした。
当時の僕にとって、それが普通であり特別な感覚は無かったのですが、広島→横浜→西宮と違うチームを経験する中で、Dライズとは空気感が違うなと感じることがあります。
環境
ハッキリ言って環境がいいとは言えないチームでした。
もちろん、ブレックスという父親というか兄貴のような存在がいたので、その恩恵にあずかれる部分は大いにありました。
夏のオフシーズン中はブレックスと合同練習、シーズン中もDライズとブレックスの2部練習をおこなう選手がいました。
試合も含め2チームの運営を行っていた当時のクラブスタッフは強者ばかりで、本当にお世話になりました。文句ばっかり言ってすいませんでした。
4チームを渡り歩いた今だから言えることは、決して最低な環境ではなかったということです。
その環境に慣れてしまうと、文句を言いたくなりますが、
外に出てみて、栃木という組織の力、組織内の個人の能力の高さを思い知り、
「外に出て初めて自分がどんな世界にいたか分かる」と実感しました。
原則練習は午前中、冬の朝一の体育館の温度は4℃(泣)暖房なし、、、
栃木は寒かった、、、
選手やコーチは体育館で昼ご飯を食べて、夕方から夜まで県内外各地のスクール講師として活動。
空いた時間を見つけてウエイトトレーニングを行う生活でした。
週末は試合、練習がオフの日もスクールやクリニック出演があり、さらにバイトも含めると、すべてをこなしていた選手に尊敬の念が堪えません。
選ばれた選手たちは午後にブレックスの練習にも参加していたので、そんな選手たちは3部練・4部練みたいな生活でした。
アスリートは練習・試合以外の時間が多くあると言われますが、彼らは例外だったかもしれません。
遠征は、ほぼすべてバス移動。当時兵庫ストークスと試合した姫路への11時間が最長バス移動でした。
人数を絞ることが多く、2012年の石川ブルースパークス戦の輪島遠征は選手8人で参加しました↓
当時bjリーグのチームに聞くと、陸が続いている限りバス移動といったチームもあったので、文句は言えません。
ブレックスとのダブルヘッダーでの試合は、11時Tip offなんて試合もありましたね。
収入は厳しい
学生時代よりも収入が少ない選手や無給の選手たちもおり、スクールやクリニックの講師料、アルバイト、スポンサーや協力者の方からの援助で生計を立て、共同生活をしていた選手たちもいました。
あの環境で育った選手たちは、バスケがうまくなりたい、トップレベルでプレーしたいという本当に強い気持ちをもっていました。
僕自身も、選手とシェアハウスで共同生活していた時期もあります。
そして、キッチンでは業務用の製氷機が常に唸りをあげていました。
間取りと換気を間違えると、夏は灼熱になります。
僕自身、生活をやりくりするために、考えた策が製氷機との同居でした。
2チーム分の備品を管理するとなるとクラブ事務所に十分なスペースや設備がなく、それでもチームの荷物置き場や氷は必須であり、僕自身も固定費を抑えたい。
そこで、チームの荷物・製氷機と同居することで広い家を借り、その分の家賃を補助してもらっていました。
広島でも同じ手を使いましたが、後任のマネージャー陣に同じ生活を強いてしまったこと、申し訳なく思っています。
独特のつらさ
何を成し遂げようとも、常に2番手の扱いというのは、独立したプロチームとしてやっている状況で精神的に満たされない部分は多かったです。
プロとしてのプライドの持ち方・捨て方が非常に難しかった。
「プロフェッショナルとは?」
僕自身、初めてプロの世界に入り、プロが何なのか分かっていなかったと思います。
さらに、厳しい収入と環境でプロと言えるのかと、問い続けた日々でした。
収入がゼロでも、人前ではプロと名乗り、自分たちは何者なのだろうと。
個人的には、プロの定義は人それぞれで、絶対的なものがあるとは思っていません。各個人が、自分の中で答えを持っていれば問題ないと思っていますが、それでも他者から求められるプロ意識・プロの定義との乖離に悩むことは多々あります。
僕よりも選手たちのほうが、悩み苦しんだでしょうね。
Dライズが誕生してからのブレックスは、優勝から遠ざかり、ヘッドコーチを何度も入れ替え、プレーオフに出場できない苦しいシーズンを過ごしていました。
トップチームが負け越していると、「Dライズだけが明るい話題だ」なんて言われることもありましたが、複雑な気分でした。
それだけ、期待値が低いんだなと思うこともありました。
もちろん、そんな環境・状況こそがモチベーションになりましたし、僕らにも声をかけてくれるファンの皆さん、支援してくれるスポンサーさん、そして運営スタッフには今でも感謝しています。
「上を目指す若いやつら」だったので、多くの方の親心に支えられていました。
独特なチームだっただけに、この環境を経験できたことは僕のキャリアに大きな影響を与えています。
そして、「ブレックスというトップチーム」+「Dライズという育成チーム」と環境の違う2チームを同時に経験出来たので、結果的に8シーズン分の経験と知識が得られ、経験値としてめちゃくちゃ得をしたと思っています。
いまだに他クラブからオファーをいただけるのは、育成チームや難しい環境でのやりくりといった経験や知識を必要とするチームがあるということでしょうか。需要があるのは本当にありがたいことです。
リーグのマネージャーミーティングで、どうしたら途切れることなくチームを変えながらもキャリアを続けられるのか?と聞かれたことがありましたが、逆にひとつのチームで長く活動する秘訣を教えてもらいたいです、、、
僕自身、もはや特定のチームや選手のファンではない立場ですが、Dライズでともに戦った仲間たちを、今でも応援しています。
熱が入りすぎて、やらかしたこともありましたが、、、
Dライズでプレーした選手たち
育成チームということもあり、毎シーズン多くの選手たちがリーグ・カテゴリーを問わず全国各地のチームに巣立っていき、そして多くの新しい選手が加入しました。
たくさんの選手との出会いが、Dライズで得られた最大の財産です。
ロースターを見てもらえればBリーグ誕生後にバスケに出会った人たちも知っている選手がいると思います。
【JBL2 2010-2011シーズン】
僕にとってもプロ1年目。ただのファンからプロの世界に入り、夢中で、必死で、当時のことはほとんど覚えていません。そして、写真もあまり残っていない(涙)
恭平と拓海が映ってる写真はなかった、、、ごめんよ。
ナリト、ショーンはプレータイムを求めてブレックスからDライズへ。在籍は2か月間くらいでした。
Bリーグにおける、レンタル移籍を同じフランチャイズ内でやっていた感じです。
【JBL2 2011-2012シーズン】
現役引退した選手たちもいますね。現役生活お疲れさまでした!
上のロースターには入ってませんが、ストークスで引退した梁川選手は育成契約でチームに入り、開幕時にはブレックスのロースター入りしました。
西宮で再びチームメイトとなり、当時のスウェットをいまだに使っている物持ちの良さに驚きました。
中西選手とは10年ぶり2度目の仕事、
先日の佐賀での天皇杯では、菅澤選手とも10年ぶりの再会がありました。
【NBDL 2012-2013シーズン】
Bリーグでもトップ選手の一員となった遠藤選手は早々にコールアップされました。トライアウトも特別枠で参加し、Dの選手として数試合出場しましたが、圧倒的に能力が高かったです。
ジミーはハチャメチャな男でした、、、
多嶋選手はブレックスのPGの状況・コンディション次第で、Dライズとブレックスを行ったり来たり。つらい経験だったかもしれませんが、いい選手になりましたね。
【NBDL 2013-2014シーズン】
Dライズ最後のシーズン。
正月から京北高校と戦った天皇杯。強く印象に残った試合です。普段は、若いチーム・育成チーム・予算規模の小さいチームとして、自分たちが格下という立場で試合をすることが多かったのですが、「がんばれ高校生!」という圧倒的な雰囲気の中での試合は貴重な体験でした。
1人前のプロとして胸を張れるような状況でもないのに、「大人げない」「プロなのに」と言われ、年の初めから悪役になるのはつらかったな。
それでも、プロチームとして認識してもらえていた証拠でもあり、何事もとらえ方次第ですね。
語り切れないエピソードも多くあります。
手作り合宿とか、きつかったけど楽しかったな。
フランチャイズ移転
そして2014年のシーズンを最後に、Dライズはリーグ参入権を山形に譲渡し、現B2の山形ワイヴァンズが生まれます。
僕のツイッターのトップ画になっている写真↓はDライズ最後のシーズン・最後の栃木でのホームゲームです。
今でも忘れられない、印象深すぎる試合です。
「長い期間所属し、チームを熟成させ優勝すること」が目的ではなく、あくまでも個人でのコールアップと成長が大前提としてあるので、ロースターを見ても分かる通り選手の入れ替えが多いチームでした。
スタッフも、4シーズン在籍したのは僕だけでした。
だからこそ、
最後のシーズンにかける思いは人一倍強く・・・
強すぎて・・・
この写真にもつながりました。
最後のシーズン、開幕前にフランチャイズ移転は知らされており、1シーズンかけて就活できたのは非常に助かりました。
ご縁をいただき、小山の喫茶店で初めて佐古さん・大野さんと会ったときは、汗が止まりませんでした、、、(大汗)
その後、リーグ参入初年度の広島ドラゴンフライズに加入することとなり、Dライズで苦しい思いをしてきたと思っていましたが、「ドラゴンフライズです!」と言っても、「はっ?」「ドラゴンズ?」という状況からチームに携わることが出来たこと、良い経験となりました。この話はまた別の機会に。
Dライズのフランチャイズ移転を知らされた際、
チームとともに山形へ、新規参入する広島などいくつかの選択肢があった中で、広島という新しい土地を選んだのは外に出ることで得られる経験と知識、いままでの自分を客観的に見つめなおす環境を求めたからでした。
キャリアを振り返りながら、マネージャーの仕事について書こうと始めたnoteですが、Dライズは思い入れがありすぎて、長くなってしまいました。
この記事がnoteを初めて一番最初に書き始めたものです。
ただ、思い入れが強すぎて、何度も読み直し、書き直し、2年ほど公開できずにいました。
The earliest moment is when you think it’s too late.
ということで、「Dライズ」というチームが存在したこと、知っていただけたら幸いです。