「アステロイド・シティ」 身を委ねること
2023年9月1日公開のウェス・アンダーソン監督が手掛ける「アステロイド・シティ」を観てきた。
映画のポスターやコマーシャルワークからでも伝わるくらいウェス・アンダーソンらしい世界観であることは伝わってきていた。また、ウェスアンダーソンの作品は魅力的な俳優陣が起用されており、ドキドキと音が聞こえるくらい胸の高まりを感じさせる楽しみな映画だった。
アステロイド・シティの世界観
アステロイド・シティは、1950年代に劇場で公開されていた劇という設定である。科学技術大会の表彰のために見渡す限り砂漠の町に来た5組の親子が、ひょんなことで砂漠の町に取り残されることからゆっくりと少しづつ話が進んでいく。
なんてことないストーリーではあるが、しっかりと1950年代の雰囲気を散りばめられている。未知なる宇宙に対する想像が膨らんでいることや、意味のない逃走劇を繰り返す逃走車とパトカーや、土地の売買を軽んじていることなど、私自身も1950年代を生きていたわけではないが想像できる時代の空気を再現していた。
何より、公開を待ち望んでいた多くの人が口を揃えていた「パステル調の絵作り」は、現実なのか夢なのかボヤッとしている効果があった。この色が劇であることの証であるし、起こっていく出来事が特別な日常な夢物語であるような印象があった。
ウェス・アンダーソンの映画は、社会的なメッセージが強く出ることはないが、アストロイド・シティを見た後には「タイミングはいつも最悪である」とセリフがあったように遭遇する出来事が自分にとって都合が良いことは少ないが、その出来事に身を委ねて過ごしているのだと思った。
フレーミングされる物語
「グランドプダペストホテル」や「フレンチディスパッチ」と同様に物語の中で物語が進む構成となっており、ウェス・アンダーソンお馴染みのフレーミングのアスペクト比を変える手法が今作でも行われていた。
しかし、今作で感じたのは物語のフレームが消えるような感覚があったことだ。今までの映画では中核となる物語が一段とドラマティックでロマン溢れる喜劇のように描かれていたが、今作では中核となるアステロイド・シティでのストーリーはどこかぼんやりと移ろうように進んでいく感じがあった。その中核の一個上の階層となる劇作家にスポットが当たりアステロイド・シティが生まれていく物語の方がセンシティブに描かれており、小津安二郎の映画のようにしなやかな力強さを感じた。
その感覚のせいか、終盤のアステロイド・シティの舞台を飛び出すシーンの直前までフレーミングされていたことを忘れていた。
今までの映画と異なり、違うレイヤーの物語を緩やかに行ったり来たりすることであたかもアステロイド・シティという劇が上映されているように感じさせていたのではないかと思う。
ウェスアンダーソンらしい映画というフレームワークと劇のフレームをミックスさせた素敵な映画であった。
ウェス・アンダーソン万歳
ウェス・アンダーソンの映画は、文化人に好まれて小さなコミュニティを形成しているように思う。分かり合える人たちだけの共通言語となり、幼少期の秘密の合言葉を共有している友達のような、それを知っているか知っていないかでの仲間意識が芽生える感覚だ。
2020年以降、誰もが平等に評価でき、楽しめるコンテンツが良しとされている気がしている。そのご時世でこのような扱いをするのは間違っているとは思うが、映画を好きな人たちのウェスアンダーソン人気は、パルコでのTシャツ販売があったように、徐々に特異なコンテンツになっていると思う。この先もウェス・アンダーソンが映画を作り続ける限り、ウェス・アンダーソンに魅せられた人たちはウェス・アンダーソンを追い続けていくしか無くなったのだと思う。ウェス・アンダーソンよ、もっと色んな世界を見せてくれ。とても楽しみにしている。ウェス・アンダーソンラブ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?