【縄文人の大人のお墓】 ゾク・元屋敷遺跡のお墓 ~配石墓・配石土坑~
はじめに
縄文時代後・晩期(約4,000~3,000年前)の遺跡である元屋敷遺跡。長期間にわたり縄文人が住み続けました。子供のお墓である埋設土器とは別に、大人用のお墓と考えられる遺構が見つかっています。配石墓、配石土坑と言われる遺構です。
縄文人にもお墓がある。では、縄文人は何歳くらいまで生きていたのでしょうか。
縄文人の多くは幼くして亡くなります。縄文人の骨の研究(小林和正1967年「出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定」『人口問題研究 第102号』)から、15歳以上生きている縄文人は、そこから15年以上生き続けられると推測されています。30歳以上になるまでは生きられる計算になります。現在、65歳以上と推定される縄文人骨もあり、15歳まで生きた縄文人の約30%は65歳以上まで生きていたと考えられています(長岡朋人2010年「縄文時代人骨の古人口学的研究」『考古学ジャーナル 第606号』)。
縄文人65歳以上30%という数字には、15歳まで生きれなかった縄文人は含まれていません。なので、縄文時代を生きた人たちの中で65歳以上生きられるというのは数字的には、そう多くないと考えられます。
あくまで大雑把にですが、縄文人が同じ年に10人生まれた場合、15歳までに7名は死亡し、3名になり、30歳までに1人死亡し、2人になり、65歳までに1人死亡し、1人になるといったイメージです。
縄文人にとって死は身近なできごとであったことでしょう。しかも、事故や病気で突然なくなる人が大半で、老衰する人は珍しかったことでしょう。縄文人にとって死は突然に、理不尽に襲いかかる恐ろしいものであったことでしょう。残された人々は得体のしれない死というものにどのように向き合ったのでしょうか。
お別れの儀式を
昨日まで元気であったかと思った人が今朝には亡くなっていた。このような喪失感に縄文人はどのように向き合ったのでしょうか。
縄文人がどのように死別をのり越えていったのかということは、わかりません。しかし、手がかりはあります。縄文人はお墓を作っていました。
以下、細かい分類などを紹介するので、目次の「元屋敷遺跡の配石墓から分かること」から読んでいただいた方が、読みやすいかもです。
では、元屋敷遺跡の配石墓を紹介します。
縄文人のお墓
元屋敷遺跡から検出された縄文人のお墓は、配石墓・配石土坑、土坑墓があります。配石墓・配石土坑は99基、土坑墓は65基が検出されました。
配石墓・配石土坑は、遺跡を南北に分ける人工的に掘られた流路の東側に集中していました。この場所は、お墓の他に、配石遺構という石を組み合わせた遺構が検出されています。
配石墓・配石土坑は儀式などをするエリアに造られていました。
以下、配石墓、配石土坑について説明していきます。
配石墓・配石土坑
元屋敷遺跡の配石墓・配石土坑は、以下のような基準から判断されました。
そして、当てはまるものをさらに分類しました。
さらに、石の配置により分類しました。
また、B2・B3類においても、A類との位置関係から
と分けられました。
以下がそのまとめです。
上記の分類の結果から、99基の内訳として、A1類13基、A2類29基、A3類22基、A4類23基、A5類4基、B1類1基、B2a類1基、B2b類1基、B3a類1基、B3b類1基、B4類2基、B5類1基となりました。
分類の結果から、A1~4類、B2a類、B3a類の89基を配石墓とし、上部構造のみであるA5類、B1類、B2b類、B3b類、B4類、B5類の10基を配石土坑としました。
元屋敷遺跡における配石墓・配石土坑の特徴
まずは、配石ということから、どのような石が配置されているかを説明します。
蓋石について
蓋石のタイプとして、A1類では、50㎝ほどの平らな石と拳大の石をいくつか並べるもの、10㎝ほどの石をお墓全面に敷きつめるもの、15㎝ほどの石を不規則に並べるものがありました。
A2類では、平らな石と拳大の石を配置するもの、拳大~頭大の石を不規則にならべるものがありました。
蓋石は、主に拳大以上の石を乱雑に並べておくようなお墓が多いのですが、中には、平らで大きな石を置いたり、石を敷きつめたりするお墓もあります。お墓である目印だったのでしょう。
縁石について
縁石のタイプとして、お墓側面に全周するものが6基、残りは、まばらに配置するもの、長辺部分に配置するものがあります。お墓の穴の上部に配置するものがほとんどで、1基だけ穴の底面まで縁石を配置したものがありました。
また、A2類・A3類では、50㎝ほどの平らな石1、2個を長辺部分に立てて配置するお墓が12基検出されました。
お墓の大きさ
元屋敷遺跡の配石墓の大きさは、長さ約130㎝、幅約60㎝、深さ約24㎝です。A類だと、大きいものだと、長さ360㎝になるものありますが、長さ180㎝以上のお墓は少ないです。B類では、直径120㎝が最大で、直径約50㎝のものが多いです。
お墓の大きさから埋葬者がどのような姿勢であったのかが推測できます。A類は膝を曲げた姿勢、B類は横向きにして足、背中、首を丸めた姿勢(体育座りを横倒しにした感じ)ではないかと考えられます。
また、掘りこみの深さが24㎝と浅いことから、お墓は地面より上に盛り上がった土まんじゅうのようなものではなかったかと考えられます。
お墓の長軸方向について
長楕円形のお墓が多いことから長軸が向いている方向からお墓の規則性がみてとれます。
元屋敷遺跡における多くの配石墓は東南~北西方向に長軸が向いています。お墓が並んでいることから同じような方向に配石墓が造られているようです。ただ、元屋敷遺跡の縄文人にとって生死観を表すような方向であった可能性もあります。太陽や月、星、または竪穴住居や配石遺構との位置関係などに即して縄文人の感覚で考えられたお墓の配置であったのではないでしょうか。
また、頭の位置として多くは西側に頭部があることが、お墓の副葬品などの出土位置から推測されています。はっきりと頭部位置が分かるものが少なく、東側にあるものもあることから、どのような規則で縄文人が埋葬時の被葬者の頭部の位置を決めていたのかは、はっきりとはしません。
お墓の中から見つかった遺物について
配石墓内から見つかった遺物には、勾玉などの玉類、赤色漆塗りの竪櫛の欠片、石剣、赤色土などがありました。
赤色土はベンガラの粉が混じった土とただ見た目が赤い土の2タイプがあります。タイプによる違いは見受けられず、縄文人にとっては、赤い色に意味があったのではないかと推測されます。
赤色土は、お墓の中の底面、上から底まで、上面といった3タイプのまき方がありました。赤色土は、亡くなった縄文人を寝かす前にまいたり、寝かしてからまいたり、寝かす前後でまいたりしたということが分かります。亡くなった縄文人を弔うために赤い土をまくという行為が行われていたと推測されます。
また、玉類の出土したお墓からは、赤色土中から石鏃、棒状加工礫が出土しました。赤色土は伴わないのですが、玉類と土錘が出土した例もありました。このほか、石剣、竪櫛が出土していることから、亡くなった縄文人は盛装して埋葬されていて、故人との関係が深いものも一緒に埋葬されることもあるようです。
焼けた骨が埋まっていたお墓
元屋敷遺跡の配石墓からは、焼けた獣の骨や焼けた人骨が検出されました。焼けた獣骨がでた配石墓は1基、焼けた人骨がでた配石墓は2基でした。
配石墓から出土した焼けた獣骨は、ツキノワグマ、カモシカ、ノウサギ、鳥類でした。副葬品や儀式として亡くなった縄文人と共に埋められたようです。
焼けた人骨は、380g、58gと焼人骨の全体量(成人男性の焼人骨の総量は約2㎏、成人女性は約1.3㎏)に及ばず、小片のため、はっきりとすべてが人骨と認められない骨もありました。また、人骨と共に、ごくわずかに人以外の哺乳目の動物の骨が確認できました。
検出できた獣骨も人骨も白くなっていることから、650℃以上の高い温度で長い時間かけて焼かれたことが考えられています。また、死後、完全に白骨化してしまう前、軟部組織(腱や筋肉など)が残っている状態で焼かれたことが確認されています。
つまり、お墓から見つかる焼けた人骨の状況から分かることは、
焼けた人骨が出る配石墓は少ない。
墓内で焼いたのではなく、別の場所で火葬し、一部の骨をお墓に入れた。
焼けた人骨は、人体のすべてではない。
焼けた人骨は、白骨化する前である。
焼けた人骨は、650℃以上で長時間にわたり焼かれている。
焼けた人骨は、焼けた獣骨といっしょにでる場合もある。
以上がお墓から見つかった焼けた人骨の特徴でした。
元屋敷遺跡の配石墓から分かること
元屋敷遺跡の配石墓の特徴をまとめていくと
長さ約130㎝、幅約60㎝、深さ約24㎝の長楕円形
大きい平らな石や拳大の石がお墓の上にならべられている
墓穴の縁を囲むように大小の石がならんでいる
北西方向側に頭があるお墓が多い
勾玉などの玉類、竪櫛、石剣、石器といった副葬品が一部のお墓で出土
赤い土を、お墓の底や埋める土として使っているお墓がある
一部のお墓からは、焼けた人骨が出土する
焼けた人骨は人体すべてではない
元屋敷のお墓
以上の点から元屋敷遺跡の配石墓を推測すると、
配石墓は、元屋敷遺跡東側にまとまっていています。お墓の形は、長径130㎝の長楕円形の土まんじゅうで、穴の周りに石がならべられていています。
勾玉などの玉類や竪櫛で縄文人の盛装したご遺体が、膝を曲げた姿で埋葬されました。石器、石製品が副葬品で入れられたお墓もあります。また、赤色土を頭側にまいているお墓もあります。
一部のお墓には焼けた人骨が埋葬されました。人体の一部分、頭や足の骨であり、また、火葬した場所はお墓内でないことから、集落のどこかで火葬し、その骨の一部をお墓に埋葬したようです。
焼けた動物の骨が出土するお墓もありました。狩猟した動物を火葬して亡くなった縄文人にお供えするという儀式があったのではないかと推測します。
最後に
元屋敷遺跡の配石墓は、石で囲んだお墓でした。また、決まった場所に配石墓の墓地を作っていました。
配石墓には、盛装した縄文人が埋葬されました。中には、儀式により火葬された縄文人もいました。
これらのお墓、埋葬方法から、縄文人は、死を弔うという考えがあったことが分かります。集団で協力して生きていくという中から、コミュニティー内の大切な仲間、家族、絆を、縄文人は分かっていたのでしょう。
現代人が行っているお葬式の原点のひとつには、縄文人のお墓があるのではないでしょうか。
それぞれの人にタイムリミットである「死」があるからこそ、生きることを大切にできる。死が隣り合わせであった縄文人の残してくれたお墓から我々現代人が生きることを考えていく材料になることを願います。
元屋敷遺跡における、埋設土器という墓制、配石墓・配石土坑という墓制を紹介してきました。さらに、土坑墓という墓制が確認されています。
次回、縄文の里・朝日note
元屋敷遺跡の土坑墓
君は、縄文の涙を見る。。。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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