奥三面遺跡群アチヤ平遺跡
奥三面ダム建設に伴い発掘された奥三面遺跡群アチヤ平遺跡。
ストーンサークルをつくり、磨製石斧をつくる。そんな縄文人が生活していた遺跡です。
縄文時代後期前葉(約4,000年前)の集落で、周辺の元屋敷遺跡、本道平遺跡、沼ノ沢遺跡など奥三面遺跡群内でも多くの遺跡で同時期に活動していました。
アチヤ平遺跡で縄文人はどんな活動していたのか紹介します。
縄文時代後期前葉の衣食住について
当時の生活は、遺跡として発掘調査され、遺構や遺物が見つかります。これらの遺構から当時の暮らしぶりが想像されます。
竪穴建物、敷石住居、掘立柱建物、配石遺構、環状配石、配石墓、埋設土器といった施設が整然と配置された集落が当時は営まれていました。
|敷 石 住 居《しきいしじゅうきょ》
当時の建物として、敷石住居は縄文時代中期末葉から後期前葉に見られる住居で関東や信州を中心に分布する住居です。遠くの地域とのつながりがうかがえます。
複式炉といわれるイロリのような設備も作られます。土器を埋めてその周りに石で囲んだ土器埋設部分と石敷きの部分が組み合されています。石敷き部分で調理し、土器埋設部分では下ごしらえをしていた説、火の信仰のための宗教的役割とする説などが考えられていますが、よくわかっていません。
アチヤ平遺跡の複式炉
また、集落のランドマークとなるような大型の掘立柱建物や環状配石、配石遺構が見つかっており、人々が集まって何らかの活動を行っていたと考えられます。例えば、集落の会議や宴会、お葬式のようなことではないかと想像されます。
アチヤ平遺跡の大形掘立柱建物
石を敷きつめた廊下状遺構
平らな石を敷きつめて並べた遺構で、廊下状遺構と呼びます。掘立柱建物などの建物がある辺りに作られていました。石畳です。整えた場所を行きかうアチヤ平遺跡の縄文人が目にうかびます。
縄文人は、近くの川原に転がっている石を自分たちのくらしに活かしていました。敷石住居や廊下状遺構には、石皿という、ドングリなどを粉にする台石やつくりかけの磨製石斧なども利用していました。
アチヤ平遺跡の埋設土器1
アチヤ平遺跡の埋設土器2
アチヤ平遺跡からは、土坑と呼ばれる穴がたくさん見つかりました。111基も検出されました。木の実などを保管するための穴やお墓ではないかと考えられるものがあります。
このほかに、土器が土の中に埋められた埋設土器と言われるものが133基も見つかりました。埋設土器は、乳幼児のお墓です。建物がある辺りから見つかります。子供のお墓と大人のお墓とは区別されていたことが分かります。
アチヤ平遺跡の環状列石
アチヤ平遺跡の集落は、丸く円を描くように広がる、環状集落という状況になっています。そして、集落の中央付近の遺構が少ない広場のような場所に環状列石があります。
環状列石は、写真のように円に配列された立石からなる遺構でその正確な役割は分かっていません。太陽の動きや星の動きなど自然を観察するための施設であるとする説、お祀りの場所とする説などがあります。東北北部の状況から主にお葬式をする場所ではないかと考えられています。
アチヤ平遺跡でも、環状列石において死者をともらっていたのかも知れません。
縄文時代後期前葉の土器群
アチヤ平遺跡の三十稲場式土器
アチヤ平遺跡の土器は、爪先で掘り起こしたような痕を付けた三十稲場式土器や後続する南三十稲場式土器があげられます。多くは深鉢と言われる煮炊き用の土器です。よく見るとスス・コゲが内外面に付着しているのがわかります。その他には、注口付土器や鉢、蓋といった土器があります。
三十稲場式土器の深鉢には、口縁部4ヵ所に突起がついています。蓋には、この突起と合わさるように凹みが4ヵ所あります。また、深鉢の内側は受口になっていて、蓋が置きやすくなっています。
三十稲場式土器は新潟県を中心に分布する土器です。この土器を使った縄文人は蓋をする調理法で、今までにない料理を食べていたのです。ぱさぱさにならず、香りを閉じ込め、煮崩れしないことが想像できますが、本当のところはどんな料理であったかは今後の研究に期待したいところです。
縄文時代後期前葉の石器群
狩猟具である石鏃・尖頭器・石錘と、採取・加工具である石錐、篦状石器、打製石斧、磨製石斧、三脚石器、板状石器と、調理具である磨石、石皿、石匙に、石器は分類されます。
石器の多少から、狩りの種類、どんなものを活用していたのか、食べ物の調理方法などがわかります。
アチヤ平遺跡では、石鏃・尖頭器が一定数あることから動物を捕獲していたことがわかる。漁網のおもりである石錘は少なく、網での漁は盛んではなかった。また、磨石が多いことから堅果類を粉にして食べていたことがうかがえます。
箆状石器などから植物繊維の加工や毛皮の加工を行っており、布や敷物、毛皮の服を作っていました。布から貫頭衣というTシャツのすその長いような服を作っていたことが考えられます。
貫頭衣の復元品
また、磨製石斧を多く生産していたことが分かっています。加えて、小型の磨製石斧や両極石器というクサビがあることで木製品を加工していたことがわかります。アチヤ平遺跡からは出土しませんでしたが、木製の道具があったことが推測されます。
アチヤ平遺跡の食生活
アチヤ平遺跡からは、クルミ、クリ、トチノミ、ドングリといった木の実とイノシシとシカの焼けた骨が見つかっています。近隣の元屋敷遺跡からはもっと多くの動植物が出土していることからアチヤ平遺跡の縄文人もいろいろな山菜や魚、動物を食べていたことが考えられます。
動物の骨が焼かれているので、直火焼きで食べていました。また、磨石・石皿が出土していることから木の実を粉にして、団子にしたり、深鉢のオコゲの状況から木の実の粉を煮詰めて、お粥状にしたものを食べていたようです。想像するに、肉の直火焼き、トチノミ団子、山菜鍋といったごちそうを食べていました。
縄文時代後期前葉の祈りの道具と装飾品
土偶、石棒、土版、ミニチュア土器、線刻礫、三角立方形石製品といった独特な道具を持っていました。これらの道具は生活を直接的に便利にする道具とは考えられません。当時の人々の文化や信仰のシンボルであり、精神活動に必要な道具であったようです。
また、有孔石製品、玉類、耳飾り、腕輪といった装飾品も認められます。着飾る意味として、この地域で手に入らない素材で作られた装飾品を身に着けることにより自分を偉く見せたり、非日常的な儀式において身に着ける盛装と考えられます。
アチヤ平遺跡の縄文人の生きざま
アチヤ平遺跡の縄文人は、石敷きタイル張りの床、豪華な最新のキッチン(複式炉)の竪穴住居や16畳ぐらいの掘立柱建物に住んでました。
お食事は、イノシシやイワナの串焼き、トチノミのパン、山菜・キノコのポタージュ(鳥・兎肉団子入り)、焼き栗、クルミ、マタタビ・ニワトコ・ヤマブドウの果実酒といったごちそう。
服は、カラムシ素材の貫頭衣、草木染め。アクセサリーは、骨製かんざし、漆製竪櫛、直径5㎝の土製ピアス、ヒスイのネックレス、土製腕輪でゴージャスにコーディネート。
普段は、明るくなったら起きて、狩りや山菜とり、木の実ひろい、キノコとりで、ごはんはご近所さんとみんなでつくって食べる。そして、暗くなったら寝る。余裕ある時は、磨製石斧づくり、石器づくり、アンギンおりで布づくり、土器づくり。たまに配石遺構づくりで村仕事。時々来る行商の縄文人と磨製石斧で物々交換。時期が来たら、お祭りをする。環状列石に集まってダンス。そして、最後の時が来たら環状列石でお葬式してもらって、土坑墓に埋葬。
結構、充実しているアチヤ平暮らし。。。
妄想もだいぶ入ってますが、アチヤ平遺跡の発掘成果から当時のくらしを再現してみました。家のつくり(家の構造)、木製品・漆製品・骨角器の活用など長い年月で失われている部分もあり、今後の研究に期待する部分も大きいです。今度のアチヤ平遺跡については、アチヤ平遺跡の土器についてもうすこし詳しく説明出来たらと。。。
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