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【縄文人のお墓】 カン・元屋敷遺跡のお墓 ~土坑墓~

はじめに

 これまで、縄文時代の生死観せいしかん端的たんてきに表現された遺構いこうとして、縄文人のおはかについて紹介してきました。おく三面みおもて遺跡群いせきぐん元屋敷もとやしき遺跡の遺構である埋設まいせつ土器どき配石墓はいせきぼ配石土坑はいせきどこうについてです。くわしくは以下からお読みいただけると、この土坑墓どこうぼについても、いっそう楽しめるかと思います。

 さて、ここからは、縄文人のお墓である土坑墓どこうぼについて紹介していきます。縄文人は、現生人類げんせいじんるいであり、現代人と同じく死にます。縄文人は、この「死」に直面ちょくめんすることが現代の日本人と比べ、非常に多かったのです。
 縄文人は病気、怪我けが、事故といったことで寿命じゅみょうをまっとうすることなく死をむかえる人が多かったのです。
 現代人もそうですが、死を迎えるまでは、死は他人事たにんごとです。しかし、現生人類である縄文人は、脳の機能きのう、特に共感力きょうかんりょく特化とっかした生き物であり、他人の死であっても、その人との記憶きおく、死の原因、コニュニティーの損失そんしつといったさまざまな影響えいきょうを感じ取り、死を自分事じぶんごととして受け取ることができました。そして、家族、親族、地域として死に向かい合い、のり越えていく方法のひとつとして、お墓がつくられました。

 ここでは、奥三面遺跡群元屋敷遺跡におけるお墓のひとつである土坑墓を紹介してきます。なぜ縄文人は亡くなった人を穴にめたのかを確かめるべく、穴というシンプルなお墓である土坑墓について見ていきましょう。

元屋敷遺跡の土坑墓1362 勾玉検出状況

元屋敷遺跡の土坑墓

 土坑墓とは、地面に楕円形だえんけいの穴をって、遺体いたい埋葬まいそうするタイプのお墓のことです。
 元屋敷遺跡の土坑墓は、65が検出されました。
 元屋敷遺跡の土坑墓は、遺跡発掘調査いせきはっくつちょうさで見つかる時、他の貯蔵穴ちょぞうけつ柱穴はしらあなと区別するために、いくつか基準をもうけて、判断しました。

お墓になる穴の判断基準。

まずは、配石墓はいせきぼと同じような形の穴であること。
加えて、7つの基準で確認しました。

  • 1類:穴の底から副葬品ふくそうひん装身具そうしんぐといった出土品しゅつどひんがあるもの

  • 2類:穴の底から配石はいせき集石しゅうせきといった人為的じんいてき行為こういが認められるもの

  • 3類:穴の上面から数個のれきが見つかるもの

  • 4類:穴にかぶさっている土の下層、底から数個の礫が見つかるもの

  • 5類:穴に被さっている土の下層、底から完形かんけいの土器が見つかるもの

  • 6類:穴に被さっている土の上層、中層から完形の土器が見つかるもの

  • 7類:穴に被さっている土の上層全面的に黄褐色土おうかっしょくど混入こんにゅうしているもの

 このような基準をもとに、土坑墓を判断しました。
 しかし、この中で、3、4類は、判断が難しい基準でした。元屋敷遺跡の立地りっち河岸段丘上かがんだんきゅうじょうということもあり、段丘礫だんきゅうれきと呼ばれる石が土の中にじっているからです。このため、多数の礫が検出されたものに限り、数個の礫が出土した穴は土坑墓とは判断しませんでした。これは、元屋敷遺跡での土坑墓がある場所にも関係しました。元屋敷遺跡において土坑墓は主に、生活域せいかついきと考えられる場所にありました。このため、貯蔵穴や柱穴などとの区別が難しいのです。
 また、7類は、発掘にたずさわっていないと分かりにくい基準です。黄褐色土おうかっしょくどは、粘土質ねんどしつの土で、穴の底になる土です。つまり、黄褐色土が穴の上層に混じっているということは、穴を掘って、掘り返した土でもどしていることの証拠しょうこだからです。墓穴はかあなを掘って、遺体いたい安置あんちして、掘った土で埋め戻したということです。

元屋敷遺跡の土坑墓の分類

 前出の条件で判断した元屋敷遺跡の土坑墓の形をみてみると、A類:楕円形(長さと幅の比率が5:4に満たないもの)とB類:円形(長さと幅の比率が5:4以上の円形)の2パターンあります。

土坑墓の形からの分類

 元屋敷遺跡の土坑墓の分類として、

元屋敷遺跡土坑墓65基は、A類32基、B類33基に分けられます。
さらにA・B類を基準に当てはめると

A1類2基、A2類1基、A3類19基、A4類2基、A5類0基、
A6類1基、A7類1基、形と深さから判断したその他のA類6基

B1類1基、B2類1基、B3類24基、B4類4基、B5類2基、
B6類1基、B7類0基

 A類、B類、共に穴の上面から数個の礫が見つかる3類の土坑墓が多い傾向にあります。

元屋敷遺跡内での分布域

元屋敷遺跡内での土坑墓の分布状況

 元屋敷遺跡における土坑墓の分布域ぶんぷいきは、生活域せいかついきである遺跡の西側にあります。配石墓はいせきぼが東側にかたまっているのに対して、対称的たいしょうてきな位置に分布ぶんぷします。幼児ようじのお墓である埋設土器まいせつどきも遺跡西側にあるので、配石墓が特殊とくしゅであるとも考えられます。
 元屋敷遺跡内での土坑墓は、竪穴建物たてあなたてもの掘立柱建物ほったてばしらたてものなどの他の施設しせつと区別ない場所に広く分布しているので、墓地ぼちとして意識いしきされたまとまった場所につくられたということではないようです。
 元屋敷遺跡の縄文人は、自分の生活する場所のすぐそばにもお墓をつくっていて、死者とのつながりが意識される生活がいとなまれていたと推測すいそくされます。

土坑墓の大きさ

 元屋敷遺跡の土坑墓は、最大長径ちょうけい284㎝、最小長径78㎝になります。
 楕円形のA類では、長径90~120㎝、長径130~150㎝、長径160㎝以上と3タイプの大きさがあります。
 円形のB類では、120~150㎝に集まっている。160㎝超える大型のものはありませんでした。
 穴の深さは、確認かくにん最上面さいじょうめんから40~60㎝を中心に、深いものだと92㎝のものもありました。

土坑墓の方向

 楕円形のA類のみですが、長軸ちょうじくがどの方角ほうがくを向いているのかを計測けいそくしました。配石墓ほどのまとまりがないものの、おおよそ、南北なんぼく方向に向いた土坑墓が多いです。配石墓は東西とうざい方向であったことからことなる傾向けいこうが見出せます。
 また、頭があったであろう位置も土製どせい耳飾みみかざりが出土した土坑墓3495のれいなどからおおよそ北から東の方向に頭が位置していたと推定すいていされます。これも、配石墓が西側に頭が位置していたことから異なる傾向を示します。

土坑墓3495からの耳飾り検出状況(北から)

 土坑墓は、竪穴建物や掘立柱建物、貯蔵穴、埋設土器などのいろいろな施設と絡み合って作られているので、縄文時代当時の集落にあわせて作られているようです。対して、配石墓は、配石遺構はいせきいこうとともに、実生活じっせいかつとははなされた場所につくられていました。

土坑墓の副葬品

 元屋敷遺跡の土坑墓からは副葬品ふくそうひんと考えられる出土品しゅつどひんは、土製耳飾どせいみみかざり、玉類たまるい18点(同一どういつ土坑墓内で)、アスファルトかいがありました。
 元屋敷遺跡のお墓からは、副葬品を伴うことは少ないです。玉類や耳飾りといった装飾品そうしょくひんが見つかるので、全員でないにしても、ある程度の盛装せいそうした状態じょうたい埋葬まいそうされていたと推測されます。

土坑墓3495出土の土製耳飾り
土坑墓1362出土の玉類
土坑墓3050出土のアスファルト塊(中央左側)

 また、アスファルトかい副葬ふくそうされているという状況から、故人こじん愛着あいちゃくのあるものを、または、その集団内で価値あるものを一緒いっしょに埋葬したと推測されます。数少かずすくないという副葬品の状況からも類推るいすいされます。

 ほぼけていない土器が土坑墓内から見つかる例もあります。元屋敷遺跡の土坑墓では、5例が確認されました。
 完形となる土器は3例で1個体でありましたが、土坑墓145から3点、土坑墓495からは6個体の完形土器が出土しました。

土坑墓145からの土器出土状況
土坑墓495からの土器出土状況

 土器は、普段から使っていたもののようで、ススがついていました。お墓に副葬するためだけに準備されていたものではと考えられます。もしかしたら、故人が造った土器など、故人にゆかりの深い土器であったのかもしれません。これも全員にともなうものではないので、埋葬者まいそうしゃの特別な思いがあっての行動だと推測されます。

お墓に入れられる石

 元屋敷遺跡の土坑墓には、縄文人の手により入れられる石があります。およそ、4つのパターンがあります。
その1:蓋石のように置かれた石。
 穴にふたをするがごとくに平らな石を中心にをならべています。およそ径20㎝の平らな石と径10㎝以下の石がめられています。2類とされる土坑墓です。墓穴の上に石が集められています。

土坑墓2143の礫出土状況。蓋のように石が並べられています。

その2:扁平な石などを土中に入れる。
 蓋石しきいしほどの集石しゅうせきは行わないものの、穴の途中とちゅうたいらな石や径10㎝くらいの石が数個まとまって出土する土坑墓がありました。3類とした土坑墓です。
遺体いたい直上ちょくじょうにおいたのでしょうか。穴の上層じょうそうから見つかります。

土坑墓463の礫出土状況。平らな石が穴の上部に置かれています。

その3:上面にいくつかの礫。
 土坑墓の上部中央にまとまった石が置かれているものです。3類に分類される土坑墓です。お墓の目印めじるしだったのでしょうか。

土坑墓1143の礫出土状況。まとまった石が穴の上部に置かれています。

その4:底面に扁平な礫。
 主に平らな石が、穴の底に置かれています。中央に一つだけの平らな石をおく穴や複数の石を穴の底の中央に置くもの、穴の底の縁辺えんぺんに平らな石などを置くものがあります。何らかのルールがあるようにも見えますが、想像の域を出ません。

土坑墓345からの礫出土状況。平らな石が穴の縁に置かれています。

焼人骨が出土した土坑墓

 元屋敷遺跡の土坑墓からは、骨が白くなるまで火を受けた人骨じんこつが出土しました。4基の土坑墓から出土しました。しかし、ほとんどの土坑墓が遺跡西側にあるのに対して、焼人骨が出土した土坑墓は東側の大形おおがた配石はいせき遺構いこう集中区しゅうちゅうくないにあります。しかも、4基が4m×2mの範囲内はんいないにかたまっています。今まで紹介した土坑墓とは、場所も意味合いみあいも違うようです。

大形配石遺構集中区の一部(配石8010)

 焼人骨しょうじんこつの出土する土坑墓の内の3基は、焼人骨が出土する位置は同一層位内どういつそういないで、一度で埋められたと推測されます。
 残りの1基は、多量の焼人骨が出た土坑墓で、幾層いくそうかの層位にわたり出土しており、また、前頭骨ぜんとうこつ頬骨突起きょうこつとっきが7点あることから少なくとも7人分の焼人骨があるものと考えられます。多層にわたり焼人骨が出土することを考えると何度か同じ場所に焼いた人骨を埋葬まいそうしたと推測されます。

土坑墓8107の断面。焼人骨が7人分以上出土したのではないかと考えられます。

 骨の状態から、幼い子供ではなく、成人であり、病変びょうへんによる状態異常じょうたいいじょうも確認されないということです。

 焼人骨は、土坑墓内に焼土しょうどがないことから、別の場所で火葬かそうされ、焼け残った骨を埋めたと考えられます。また、この行為こういが行われた時、骨に、筋肉きんにくけんといった軟部なんぶ組織そしきがついた状態、つまり、死後、それほど時間のたないうちに、700℃以上の温度になる炎で、骨が白くなるまでしっかりと焼かれたという状況であったと推測されます。

 この焼人骨が出土した土坑墓は、特別なものであると推測されます。その他、多くの土坑墓は、元屋敷遺跡の生活域に存在しているの対し、配石遺構群のなかにあるからです。また、火葬するという行為、同じ土坑墓に幾人いくにんものお骨を埋葬する行為は、普通にお墓に埋葬するという行為より、何倍もの労力ろうりょくがかかることは、想像にかたくありません。
 焼人骨で埋葬された縄文人は、おそらく特別な立場にある人で、その人をとむらうことを集落全体で行うことに強い動機どうきづけがあったことを推測させます。

それは、こんな物語ストーリー妄想もうそうさせます。
 約4000年前、急な寒冷化かんれいかで、集落は存続そんぞく危機ききに。しかし、この集落でも、東北や関東からの文化や生きる技術ぎじゅつをもった人々との交流こうりゅうにより、元屋敷遺跡の縄文人たちは生きる力をとりもどし、その知識ちしきをもった縄文人たちを中心に豊かな生活を取りもどしていくようになりました。
 時がきて、村をささえた人たちがひとり、またひとりとくなる時、今後も集落の行くすえ見守みまもってもらう為、みなの団結力だんけつりょくあらたにする為、火葬し、功労者こうろうしゃの骨を、同じお墓におさめて、集落全体のご先祖様としておまつりし、決められた日に供養くようするようになりました。これが、お彼岸ひがんのはじまりだとさ。
これは、妄想に妄想を重ねた物語です。あくまで妄想です。

まとめとして

元屋敷遺跡の土坑墓のまとめ 

ここまで、元屋敷遺跡の土坑墓について述べてきました。まとめると、

  • 土坑墓は、元屋敷遺跡の生活域である西側にある。

  • 土坑墓は、楕円形と円形の2タイプある。

  • 土坑墓は、副葬品、石、土器が伴うことで7タイプある。

  • 土坑墓は、長径120㎝から150㎝のものが多い。

  • 土坑墓は、おもに南北方向に軸があり、頭は北側から東側の間にある。

  • 土坑墓は、装飾品である耳飾りや玉類が見つかるものがある。

  • 土坑墓は、扁平へんぺいな石や丸石まるいしいたり、かぶせたりする。

  • 土坑墓は、配石遺構に隣接りんせつして、焼人骨が埋葬されるものがある。

 元屋敷遺跡の土坑墓は、生活域である竪穴建物、掘立柱建物などがある区域くいきにあります。埋設土器も同じ場所にあり、多くの縄文人は生活する場所に埋葬されていたようです。死が身近みぢかで、死後も共にあるような感覚だったのでしょうか。配石墓は、生活から切り離された配石遺構群にあるので、また違った意味合いがあります。

元屋敷遺跡における土坑墓とは

 元屋敷遺跡の土坑墓は、亡くなった縄文人を自分たちの生活する場所に埋葬しました。ただ埋めるだけでなく、亡くなった縄文人を着飾きかざったり、生前せいぜん使用しようしていた土器をおさめたり、扁平へんぺいな石や丸石でお墓をかざったりと、故人とのつながりを死後も継続していたようです。元屋敷遺跡の土坑墓は、現代でのお仏壇ぶつだんのような感じだったのではないでしょうか。

 縄文人のお墓は、時期・場所で、さまざまです。縄文人の死生観は、縄文文化です。縄文人の生き方が豊かであったことが分かります。
 山あいの集落である元屋敷遺跡の縄文人は、遠隔地えんかくち近隣きんりん、集落内で熟成じゅくせいされた生き方で精一杯せいいっぱいに生きて、死んだようです。
 縄文人は、流産りゅうざん死産しざん、病気、事故といったことからも現代人より長生きはできなかったです。しかし、縄文人だけが大変なのではないです。だいたいのホモサピエンスは生きるのが大変です。なぜなら、脳を発達させて、共感力MAXであるので、人のために生きることが最大幸福だからです。利己的な本能と利他的な共感力のせめぎ合い、板挟いたばさみです。
 苦しく、つらく、そしてそのまま死を迎えていたとしても、他の人にとって、その生き方を見せてくれたことにより敬愛けいあいされていたしるしとしてお墓があったのでしょう。縄文人はお墓をつくり、死をいたみ、自分もいづれ同じようにとむらわれるものに変わっていくことになることをより強く実感じっかんしていたことでしょう。春夏秋冬しゅんかしゅうとう、めぐる季節のごとく、縄文人の生き方も、めぐりめぐってめぐり続けていたことでしょう。

おしまい

ここまで読んでくれて、ありがとうございました。


サポートなんて滅相もないです。 みなさんのお目汚しもいいとこですし、 いいんです、いいんです。 あなたの人生に少しふれられただけで、充分なんです。