5月末、◯◯たいと呟やいた日から。
恥の多い生涯を送ってきました。
自分には人間の生活というものが見当つかないのです。
そんな出だしの人間失格ですら、
「んな事言いながらお前モテとるやんけ!!」
と思いながら読み終えた記憶があります。
今読むと違うのかね。
人はそれぞれのものさしを
意図せずとも持っている。
価値観と言い換えても良いのかもしれない。
でも価値観なんて抽象的に思えて
ものさしの方がとても正確な気がするじゃん?
俺だけ?
だけども俺はインチ、とかフィートとかさ、単位違うとさっぱりなのよ。
結局は曖昧なものに変わりはないと思ったり。
それでも、出会う人出会う人、自分のと比べると大幅に違うんだなぁと痛感しているのが最近で。
痛感です、本当に。
感じる度に痛みが伴う。
比べるな、比べるな、と思いつつ。
心が豊かな人間でありたいとはずっと願っていて。
それは表現をする人間として必要なものとして認識しているから。
でも何を持って心が豊かなのかももっと見極めないといけない気がする。
だからきっとここに、こうやって記す時間も大事なのかと。
溜まった水に石が落ちるとする。
そうすると泡が生まれて、波紋が広がる。
その泡や波紋一つ一つに名前をつけようとしている節はある。
毎日、取りこぼさないように、なんて思いながら
あぁ、今日もできなかった、今日もできなかった、と悔恨の気持ちで眠る。
そりゃ疲れるよな。
幼少期に石を集めたりした事もあったけど
それだってそう。
全ての石は拾えないのだ。
そんな当たり前の事に気付くまでここまでかかるとは。
そして30年以上生きてると、
「それ前も言ってた」
なんて突っ込まれたりもする。
それだってやっぱり悔しいのだ。
だけども人が一回で覚えれる事を自分は10回やって覚えるみたいな、ポンコツの自覚もある。
それなら諦めるか、10回以上繰り返すしかないのだ。
あいにく諦めの悪い才能だけはある。
音楽をやっている。
から、いつしか
人間ジョウカダイゴをやっている
気持ちが強くなってきた。
それは長年やってきた配信や、お世話になって、なんだかんだ10年近くのなかで見守ってくれてる人達がいるからなんだけど。
いつもありがとう。
そしてすいません。
Xだけにはとどめれたけど、
◯◯たいを連呼する事態が発生して。
これはもう過ぎたことしてみんな本当にめちゃくちゃ笑って欲しいんだけど。
さっきの泡の話で例えるなら、
もう適当でいいから今出てきてる感情全部に同じ名前つけてやろうとなったわけです。
正直やった意味は結構あったんじゃないかな、とも思ってます。
心配してくれた人達には本当に申し訳なんだけれども。
きっかけは大したことじゃなく、
集客もパフォーマンスも満足に出来ないライブをして、
これで10年目になろうとしてるってなんやねんってただただ痛感して。
更には、
表現者であろうとがむしゃらに(かと言って迷ってた時間も多くて大して進めてもいない。)
やってきた結果、犠牲にされてきた
多大なる人と触れ合う時間の道筋が遠い崖を隔てて見えたというか。
ん、わかりにくいか。
だからそやな、、、
10年前に、振り返らずにまっすぐきた二股の道の片一方は全然まだ辿り着く気配もないのに
もう一方の道選んでたら今頃、楽園やったぞ、
って話をめちゃくちゃ聞くようになってきたというか。
なんしか、人と深く関われて来れなかった人生が寂しいなって思ったんよな。
そうなると自分の悪い部分しか目につかんくなって、そんな人間が人と関わろうとするだけで、相手に悪影響を及ぼすんじゃなかろうかと、思ってしまってからの沼よね。
病み散らかす事はよくあるけど、
なんでいつも、
「んな事ないよ、そーいう時に人って頼られたりすると嬉しいもんやで?」って自分自身に言ってあげれないのか本当に不思議である。
もうこれで終わりに出来たらな、とは思っている。
終止符、バーン!!
なのに、そこから2波、3波、感情の振れ幅はあったよね。
ジェットコースターだわ。
でもまぁらそこがあったから耐えれたのかも。
今年一年のテーマは「決」として去年末から決めてたけど、
6月7月は「立」になりそう。
そして10個以上も年下の子に
ダイゴさんはもっと話す事考えてから喋り出した方がいい。という最もすぎるお叱りにも似たアドバイス(の体をしたお叱り?笑)を頂いたので
これは本当に守りたい守り抜きたい。
だからこその駄文は許せ下さいませ。
皆さんにも前向きな発表が出来そうな予感があります故!!
(こーいうとこやぞ!![でもこればかりは考えているしまだ途中やから言わねぇ!!!])