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『静かに燃える家』

朝のリビングは、母親が立ち働く音で始まった。湯気の立つ味噌汁、焼きたての魚、炊きたてのご飯がテーブルに並ぶ頃、家族が集まり始める。父親のトシオは新聞を片手に降りてきて、タカシは寝癖を直さないまま椅子に腰掛け、ヒロコはスマホをいじりながらパンをかじっている。

母親はいつものように声をかけた。「タカシ、今日発表会でしょ?ちゃんと着替えなさい。ヒロコ、学校の書類、机に置いておいたから出しておいてね。お父さん、洗濯物畳むのお願いできる?」

「あとでやるよ、今はネイルが乾いてないから無理」とトシオは新聞をめくりながら答えた。トシオの手には、きらびやかなネイルが施されている。

その瞬間、母親は視線を落とし、無言でキッチンに戻った。



それは数か月前のことだった。友人に誘われて訪れた女装バーで、トシオは初めて「女装」を経験した。借り物のワンピースを身にまとい、化粧を施されて鏡を見たとき、彼は胸に何かが弾けるような感覚を覚えた。

「どう?結構イケてるでしょ?」店員が笑いながら言ったその言葉に、トシオは照れ笑いを浮かべたが、心の中ではそれ以上の興奮を感じていた。それ以来、女装バーに通うようになり、少しずつ自分で服や化粧品を買い揃えるようになった。

「これ、似合うかな?」と母親にワンピースを見せたのは、その延長だった。母親は戸惑いながらも、「…いいんじゃない?」と答えた。それがトシオを解放する引き金となった。



トシオはどんどん「女性」として生きることにのめり込んでいった。休日にはフリルのスカートを履き、化粧を練習し、ネイルを塗るのが当たり前になった。そして「自分らしく生きる」という言葉を頻繁に口にするようになった。

皿洗いを頼んでも、「手荒れしたくない」と笑って断られる。
母親がトシオの黒いブラジャーを手洗いしている横で、トシオは鏡を見ながら自分の姿に満足そうな笑みを浮かべていた。
母親は徐々に感情が麻痺していくのを感じていた。



ある日、ヒロコがついに声を上げた。
「お父さん、それで本物の『女性』だなんて言わないでよ。お母さんの辛さなんか、何も分かってないくせに!」
リビングは一瞬静まり返った。トシオは驚きながら、「...どういう意味だ?」と問い返した。
「お母さんがどれだけ背負わされてるか見てもないくせに!家事も子育ても全部押し付けられて、それでも耐えなきゃいけないのに、ただ着飾るだけで女って名乗るなんてふざけてる!!」
トシオはしばらく黙っていたが、やがて顔を赤くしながら声を荒げた。
「俺だって、本物の女になるために努力してるんだ!メイクや洋服、振る舞いだけじゃない、手術だって考えてるんだぞ!それがどれだけ大変かわかるか!?簡単なことじゃないんだ!!」
リビングにトシオの大きな声が響き渡る。彼の顔は怒りとも混乱とも取れる表情で歪んでいたが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。感情を爆発させたトシオの姿に、ヒロコはしばらく黙っていたが、やがて冷たく見下ろすような眼差しを向けた。
「手術?努力?それが何?そんなの、自分のためだけでしょ?それは、お母さんが苦しんでることには、何一つ関係ないじゃない。」
ヒロコの声は静かだったが、その冷ややかさはリビング全体に重く響いた。トシオはその言葉にぐっと息を飲み、泣き続けながらスカートの裾を掴み、必死に何かを言おうと口を開いた。しかし、言葉は出てこなかった。リビングにはトシオの嗚咽だけがこだまし続けたが、誰もそれを止めようとはしなかった。



数ヶ月後、ヒロコは母親と二人きりの夜、意を決したように切り出した。
「お母さん、私、男として生きることにする。」
その言葉に母親は箸を置き、驚きと戸惑いが入り混じった表情でヒロコを見つめた。「どういうこと?」と静かに尋ねた。
ヒロコは一瞬ためらいながらも、重い口を開いた。
「…ずっと思ってたの。女でいるって、なんでこんなに苦しいのかなって。」
彼女の声は震えていたが、目は真剣だった。
「小学校の時、先生が言ったんだ。『わんぱくでサッカーが好きなら、それは心が男の子なんだよ』って。その時は『そうなのかな』って思っただけだった。でもね、この前高校に『性別を選ぶことは権利だ』って話すトランスジェンダーの人が来て、女性から男性になった話を聞いたの。それを考えると、私も男になれば楽になれる気がするんだ。」
母親は目を細め、娘の言葉の裏にあるものを探るように聞いていた。ヒロコは続けた。
「それに、最近お父さんのことを見てて思った。『自分らしく』なんて言って、好きな服を着たり、化粧をしたり、やりたいことを全部やってる。お父さんのやっていることは今でもやっぱりおかしいし、お母さんを馬鹿にしてるとしか思えない。でも、それでも正直、すごく羨ましいと思う自分もいるんだ。」
ヒロコの声が少し詰まり、彼女は視線を落とした。
「だって、私はそんな風に自由になれないから。鏡を見るたびに、自分の顔が気持ち悪いって思う。男子からの目線も本当に嫌で仕方ない。私の体がどう見られてるのか想像すると、息が詰まりそうになる。友達が『かわいい』とか『綺麗』って言われてるのを見ても、私には耐えられない。ただ男の子たちに評価されるための存在みたいに思えて。」
母親は息を呑んだ。ヒロコがこんなにも深い苦しみを抱えているとは気づいていなかった。
「女の子って、どうして自分を飾らなきゃいけないの?どうして『かわいくなれ』って言われるの?それができない私は、女として失格なんだって、ずっと思ってきた。でも、男だったら違う。『かわいい』なんて求められないし、評価の目線に晒されることもない。ただ、自分でいられる気がするの。」
ヒロコの声は次第に強くなっていったが、その奥には悲しみと疲れがにじんでいた。
「お母さんも知ってるでしょ?学校で男子は大声出しても自由にしても笑って済まされるのに、女子だけが『女の子らしくしなさい』って怒られる。それが当たり前みたいになってるのが嫌だった。…だから、私はもう女でいるのをやめたい。」
母親は涙を堪えながらも、必死に冷静さを保とうとした。「ヒロコ…そんな風に感じてたなんて。お母さん、全然気づいてあげられなかったね。」
ヒロコは首を振った。「お母さんのせいじゃないよ。でもね、お母さんを見てると、『女』でいることがどれだけ苦しいか分かる。全部背負い込んで、誰にも頼らないで、ただ耐えてる。それが怖いんだ。お母さんみたいに生きるのが。」
母親はその言葉に胸をえぐられるような痛みを感じた。ヒロコの苦しみは、自分が作り上げたものでもあるのかもしれないという罪悪感が押し寄せてきた。
「…本当にそれでいいの?」母親は震える声で問いかけた。「男になれば、そんな風に苦しい気持ちから解放されるの?」
ヒロコは少し考え込んだ後、静かに頷いた。
「分からない。でも、今のままじゃ生きられない。男でいる方が、少しは楽に呼吸できる気がするの。それに、男になれば、全部、この家のそんな鎖みたいなものから解き放たれるんじゃないかっていう気持ちがどうしても強くなったの…。」
母親は言葉を失い、ただヒロコを見つめた。その目には、どれだけの重さを背負ってきたのかを物語る、深い苦悩が浮かんでいた。ヒロコはその場で母親を見つめ続け、小さな声で「ありがとう、お母さん」とだけ呟いて部屋を出て行った。



ヒロコ――いや、今は「ヒロシ」と名乗る娘が家を出た後も、母親の生活は変わらなかった。トシオは相変わらず「女性らしく」振る舞い、タカシは何も気にせずに生きている。母親だけが、変わらぬ家事に追われ続けていた。
ある夜、母親は疲れ切った体でリビングの椅子に腰掛けた。手には、ヒロシが置いていった一枚の手紙が握られている。
「お父さんも、タカシも、きっと変わらない。ごめんね、全部背負わせて。」
母親はそれを読みながら、涙を静かに流した。


ある朝、リビングに現れた母親は、

これまでとは全く違う姿だった。短く刈り込んだ髪、トシオのシャツを着て、ズボンを履いている。顔には薄い化粧はなく、手には新聞が握られていた。

タカシが驚いて尋ねた。「お母さん、それ…どうしたの?」

母親は新聞を広げながら、ふっと笑った。
「これからは俺も、男として生きるようにしたよ。」

トシオは絶句し、タカシは何も言えずに母親を見つめた。母親は一切気に留める様子もなく、新聞をめくりながら続けた。

「これで、少しはヒロコの気持ちが分かった気がする。『男』でいる方が、自分を守れる気がする。」

その後、母親は家事を放り出し、リビングには洗濯物が積まれ、キッチンには皿が散らかるようになった。家族は次第に不満を募らせたが、誰も母親の変化について真正面から問いただすことはできなかった。



ある夜、母親はふと鏡の前に立った。短髪になった自分の姿を見つめ、思わず笑みを浮かべた。だが、その笑顔はどこかぎこちなく、冷たい光を帯びていた。

「これで私も、ようやく楽になれるはず。」

そう呟いた母親の声は、どこか遠いところから聞こえるようだった。リビングの灯りは相変わらず暖かく輝いていたが、その光はもはや誰の心も照らしていなかった。


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