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『正しいお茶会』

私はとてもウキウキしていた。今から、いつものカフェで、咲と旅行の計画を詰めるのだ。温泉、露天風呂。岩盤浴にカニ食べ放題。身体も心も癒やされに行く小旅行。

お互い既にめぼしい宿や行きたい場所をピックアップしてきていて、あとは実際話しながら細かいところを決めていく予定だ。私は、かわいいものが大好きな咲の好きそうな、浴衣レンタル付きプランなどどうかと提案するつもりでいる。

咲はひとつ年下の幼馴染だ。子供の頃、建ち並ぶ新築のなかの一軒の、我が家に咲はよく遊びに来ていた。

咲は高校を出たあと働き始めた。弟の学費がかかるからと一度だけこぼしたことはあったが、それ以外に咲がおうちのことをあまり口にすることはない。

大学進学を機に独り暮らしを始めた私とは生活がまるで違ってしまったが、それでも私たちはしばしば連絡を取り合い、少なくとも1ヶ月に一度は会っていた。最近はほとんど私の恋愛相談、失恋の泣き言、そして恋がうまく行ったこの一年は殆どが惚気、といった話を繰り返していることが主だったが。

私は、大学では親しい友人がなかなかできなかった。ありきたりな恋愛話でも、勉強や、バイトのことでも、すごいねそうなんだ舞香は大変だね、そうなんだ面白いね、本当に舞香といるの楽しいよ、大好き、といつも感情たっぷりに嬉しそうに聞いてくれるのは咲だけだった。

でも今は違う。ようやく大学の皆にも、色々と話せる状態になれたのだ。皆が輝く目で私の話に身を乗り出す。コメントをくれる。ぜひもっと聞かせてくれと、見も知らない人までが集まってくる。この変化も、近頃の私の心を浮き立たせていた。

私がカフェに着いて、ほどなくして咲はやってきた。子供の頃からずっと変わらないゆるいくせ毛の、茶がかった髪をひとつに束ね、長いまつげに縁どられた薄い色素の目で私を見つけて、白くて細い手を胸元で振ると、いつもの心から嬉しそうな笑顔で席へついた。何度見ても、女の子らしくて可愛いなぁと思う。

舞香ちゃんでも泣いたりすることあるの?などとよく聞かれる私と、全然違う見た目の咲は昔からよくいろんな男に好意を持たれては、なにかしらトラブルに巻き込まれていた。はっきり断ればいいのにと私は口先では言うのだが、咲には私と同じようになんてできないことは、幼馴染としてよくわかってもいる。

そして……一度、本当に大変なことが起きた。そして警察が来て、それから……それから、咲は男性が近づくと少し怯えた様子を見せるようになった。

「舞香ちゃん、探してくれてありがとう!かわいい。この浴衣着てさ、いっぱい一緒に写真撮ろうね」

私が提案した宿を咲は予想したとおりの笑顔と反応で喜んで、ここにすると言った。私も大満足だ。

あっという間に予定は決まり、私は、私のもうひとつの本題を切り出すことにした。

「それでなんだけどさ、今回もう一人……女の子連れて行ってもいいかなぁ?」

「え?この旅行に、一緒に?それって、私の知ってる人?」

咲は目を丸くして両手の指を固く組み合わせ、少し緊張した雰囲気になった。

「知ってるっちゃ知ってる。かも。写真は見せたことあるし……その人の話はよくしてたっていうか。すごく色々悩んでる子だから、咲にも友達になってあげてほしいんだ。温泉で三人でゆっくり話してみたいって彼女も言ってて。……ちょっと待ってね」

そう言ってスマートフォンで呼び出しをかけた。実はすぐに咲に会わせたくて、店の外で待ってもらっていたのだ。

ドアを押し、咲の背後からやってくる彼女に手を振った。

「こっちこっち」

振り向いて彼女をみとめた咲の肩がビクッとなったのを、私はたしかに見た。

でも大丈夫だ。最初は一般的にはまだまだそうなることくらい想定済みだし、話しているうちには理解が進むはずだと、大学の皆とロールプレイしたから対策も万全なのだ。

「こんにちはぁ」

と、私のパートナーのルルレが高い声で挨拶し、咲の隣に座った。咲は小さく挨拶を返す間も、ルルレの顔からは目をそらしたままだ。

「やーだ!ほんとに可愛い〜。舞香が見せてくれた写真より本物のほうがずっと可愛いじゃん。これじゃアタシの負けかも!嘘〜!うふふ!」

ルルレはいつものようにおどけて笑った。

咲はずっと黙っている。

「……舞香。ごめんね。この方って舞香の彼氏さんの、隆二さん……だよね?」

見てわかるほどに震える手で紅茶を飲んだあと、咲はやっと口を開いた。

「いやあのね咲、大丈夫だよ。隆二じゃなくて今はルルレちゃんなんだ。見て、ホルモンも入れててね、胸もほら。私よりあるんだよ。ずるくない?」

そこまで言うとすかさずルルレが、身をくねくねとよじりながら、やぁだもう恥ずかしい〜〜と笑った。他のテーブルからもクスクス笑いや視線を感じる。でも大丈夫。むしろ、なんて誇らしいことだろう。私とルルレが今、このカフェでいちばん最先端に居て、正しい人権意識の道を開き、新しい風をこの見慣れた店内に吹き込んであげているのを感じる。

ルルレが、大きなリボンのあしらわれたピンクのハンドバッグから“瑠々零”と書かれた名刺を取り出して、咲に差し出した。

「アタシね、生まれ変わったの。名前だけじゃないのよ。身体ももうすっかり女なの。あなたと同じ。だからアタシのことはもう、ルルレって呼んでね」

咲は震える手で名刺を受け取ったが、それを眺めているはずの目は呆然とただ宙を見ているようだった。

なんだか私は少し焦りをおぼえ始めた。

「そう。咲、そうなの。ルルレちゃんはこないだ大変な手術もして……すごい覚悟なの。心も私より女性だよ。こんなスカートとか、お人形とか、咲みたいに可愛いものが大好きで……。きっと仲良くなれるよ。ずっと、自分はほんとは女性のはずだと思って、小さい頃から悩んでたんだって。ね、ほら前にも話したでしょ?世の中にはそんなセクシャルマイノリティの人たちが居て、私たちはシス女性で……なんの努力もなく女性でいられる私たちは、彼女らよりずっと恵まれた特権階級なんだよって」

そこまで一息に言った私の手には、じわじわと汗が滲んでいた。

「ね……だから、シス女性の私たちが受け入れて、寄り添わなきゃいけないんだよって話、したよね?咲も、そのとき、頷いてたよね?」

重ねるように私は言った。

でも私は知っていた。私はそのときだって、たしかに見た。今までなにを話しても笑顔で、薄い色素のキラキラの目で私を見てくれていた咲が、この話をしたときだけ唇を引き結んで目をそらしたのを。だから今までずっと、隆二がルルレになった件について、一言も触れずにきた自分も。

今、咲はあのときと比べ物にならないくらい動揺しているのが伝わってくる。私も、咲に対してなら、決してこんなふうにまくしたてるつもりじゃなかったし、差別者への反論や対応、悪気のない差別を解くための練習だって今までもたくさんしてきたのに、目の前の咲に、なぜか言葉がうまく出てこない。今までも幾度も見聞きしてきたのに、SNSでもたくさんの人に正しい批判を浴びせて、改心を迫ることができたのに。彼女らと同じ、理解の足りない、間違えた愚かな姿そのままの咲に、言うべき正しい言葉がもうなぜだか出てこない。

鏡を見て髪を整えることに一生懸命のルルレの隣で、突然、名刺からぐっと顔をあげて咲が言った。

「舞香、私に、ほんとに隆二さんと三人で、温泉に入ろうって、そう言っているんだね?」

私は、咲のそんな目を初めて見た。涙がいっぱいに溜まって、店内の光を反射していた。白目は赤く充血していて、痛々しかった。泣いてる咲は何度も見てきたけど、それらのどの咲とも違っていた。
涙でいっぱいなのにまるで燃えさかっているみたいだ……と思ったとき、一瞬の強いめまいとともに記憶の糸が繋がった。嘘だ。嘘だった。この目を見たのは初めてではない。私に向けられたことがなかっただけで、私はただ一度だけ、この目をしている咲の横顔を見たのだ。

2年前、咲に好意を寄せた、取引先の男が居た。それ自体はよくあることだった。咲は、これもよくあったのだがうまく断りきれず、取引先ということもあって何度か食事に付き合った。交際の申込みは流石にもちろん断ったのだが、彼はその後から咲にしつこくつきまとうようになってしまった。そしてついには、仕事帰りに待ち伏せて、社用車に咲を押し込もうとしたところを、あやうく咲の同僚が発見して取り押さえてくれたのだった。

そして、そんなことは何も知らず、自宅でのんきにネットフリックスで映画『ブックスマート』を観ていた私に、震える声で咲から電話がかかってきた。

「たすけて舞香ちゃん」

尋常じゃない様子にすぐ駆けつけた私に咲はしがみつきながら、ようやく警察への受け答えを始めた。それまではずっとただ震えているばかりで、何も答えられない状態だったらしい。

女性警察官が優しく聞いてくれている間は、まだよかった。でも、事情聴取が終わりかけの頃にやってきた、年配の男性警察官がこう言ったのだ。

「まあでも、あんたも思わせぶりなことしたんでしょ。男にはメンツがあるから気をつけなさいね。彼は車で話そうとしただけだって言ってるよ?過剰な反応するとこ見るとまあ、処女なのかな。わはは」

あまりの言い草に意味が飲み込めず私は、曖昧に笑ってしまった。そしてそのあと、何も言葉が出ないまま、咲の顔を見た。そのときの咲は目に涙を溜めたまま、まっすぐに男性警察官を見ていたのだ。女性警察官が「ちょっと……そういうのはだめですよ」とたしなめている間も、咲はずっとその目を男性警察官から離さなかった。その目は赤く燃えていて、できるならこの視線でこいつをこのまま刺し殺したいと言っているようだ、いつもニコニコしていたこの目はほんとは私よりもずっと強い目だ、と思ったのを私は覚えている。

そうだ。覚えている。私は頭の中がぐわんぐわんと揺れるのを感じていた。心臓のあたりは、こぶしで殴られたみたいだ。いっそこの衝撃でもう本当にこの心臓が止まってしまえばいいとすら思った。

あの目が私に向けられたことはただの一度もなかっただけで、私は今、私に注がれているそれを、意味とともに確かに覚えているのだ。

「ごめん。いったんお手洗い行くね」

咲は鼻声で言って椅子を引くと、ルルレの後ろを抜けて、私の隣を通り、店内を足早に奥へ向かっていった。私もあわててあとを追おうと腰を浮かせかけたとき、ルルレが笑いながら言った。

「なんかぁ、思ってたのと違うくない?女同士なんだしもっと軽い感じで良いじゃん。これじゃアタシがなんかしたみたいで、気分悪いんだけど。咲ちゃんてさ、年の割にちょっと幼いのかな。被害妄想って言うか……。舞香から前に聞いた話も、これみよがしに震えてたんでしょ?ていうかほんとにそれストーカー?って思ったし」

そう言ったルルレにも私は、ただ力なく曖昧に笑ったのだと思う。自分の表情もわからなくて、すべてが遠い気がする。

と、ルルレはバッグからメイクポーチを取り出して立ち上がった。

「ていうか、アタシもおトイレ」

と、私の横を咲と同じようにすり抜けようとした……ところを。ルルレのその腕を。私はなぜか強く掴んだ。そして、掴んでから、私は今いったいなぜこの腕を掴んだんだろう?と、自分の思考が自分の行動をあとからゆっくり追いかけていくのを感じていた。だって私は。ルルレの今から行く先が“どっちか”を知っている。それを止めたかったのだ。だが、なんで?

私はとても正しいのだと、大学では皆が褒めた。教授ですら、私の話を聞きたがっていた。素敵な新しいレズビアンカップルだねと言われ、いっそ二人で講演会をしたらどうかなんて話まで出ていた。これが差別のない素晴らしい、人間同士の本来の在りかたなんだと言われた。皆の勧める本にも、必ずそう書かれていた。性別はグラデーションで、誰もが自分らしい性別を選びとれるのだ。ルルレは、身体は男性に生まれてしまっただけの女性だ。手術だってした。だから今は本当に女性なんだ。いや、もとから女性だったんだ。私と咲と、全く同じだ。だから、私は正しいんだ。

でも、だけど、それじゃあなぜ?私は今、この人の腕を掴んで引き留めているのだろう。どこに行かせたくないのだろう。なぜ私の手は震えていて……なぜ私は、大学で近頃突然に私の周りに集まり始めた人たちの、あのギラギラした目の輝きなど、咲のそれとは全然なにもかも違ったじゃないかなんて、そう気づいてしまっているのだろう。

こんなはずじゃなかった。このテーブルは、日本一、世界一、正しいお茶会になるはずだった。咲の勘違いや愚かな偏見を私がきちんと解いてあげて、きっとまたあの笑顔で私をキラキラと見てくれるはずだったのに。

わずか数分が何倍にも感じられるたった今のこの時間、私は大学の皆から見て、全く正しくないことをしている。本にある回答と真逆のことを。その自覚がある。自分の手の甲を見つめる私を、この人がどんな目で見ているかも、確認しなくたってわかる。

だが、私は、私のこの手が、少なくとも咲が戻ってくるまではたとえ殴られてもこの人の腕を離さないことを、頭からつま先まで内臓も血も細胞も全てこの全身で、よくよく理解していた。その理解は、この私の握る手の正しさは、どんな本を読んだときよりも、どんな教授の高説を聞いたときよりも、私の深いところからぐんぐんと湧き上がり続け、ひたすらに私の腕に強い力を送るのだった。

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