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「まち」の余白 江戸が遺した、東京の柔軟性
なにげなく通りすぎてしまう風景に、時として、ひどく気になる「何か」を感じて立ち止まってしまうことがあります。
たいがいそんな場所には、やけにあっけらかんとした空間が、空にまで抜けるように広がっているの です。
私は、その不思議な空間に立ちつくす ― そこに私の“まち”を感じるからです。
そこは美しい街並とか、歴史的な環境保全区域といった特別に厚化粧した場所では決してありませんが、“まち”のもって生まれた宿命というか、つまりま“まち”のなりたちの狭間に生き残ってしまった風景が、肌合いも生々しく無造作に置き忘れられているのを見つけ出すことができる場所なのです。
「ま ち」
日本に「まち」という都市が発達してくるのは江戸時代以降のことで、それ以前、人々は「京」という“みやこ”か、「村」という“ひな”の暮らししか知りませんてした。
慶長八年からの徳川幕府による江戸の街造りは、そんな人々の前に、活況に満ちた毎日が祭りのような日々と、少し無頼で怖いけれどわくわくするほど刺激的で、新奇な暮らしの場を提供したのです。
開幕時、新たに流入してきた人々によって江戸の人口は三〇万人からにふくれ上がり、中期以降には百万人を越したといわれます。人口の増加は、即災害の増加を意味します。
旧利根川河口の三角洲に開かれていく江戸は、文字通り江戸(江=河川の戸口)ですから水害に弱い。巨大な都市事業に必要な労働力を収容するべく急造した町屋は火事に弱い。
江戸の歴史は、毎年のようにくり返される火事と水害の歴史でした。
人口の増加にともない、新田開発による食料増産が要求され、それまでかえり見られることもなかった低地帯や湿地、台地までもが開墾されるようになりました。自然の中で人知れず起きていた川の氾濫は、たちまち「水害」と呼ばれる災害になったのです。
もともとの武蔵の国の住人は台地部に根付いていましたので、新参の江戸市民は、条件の悪い地域に密集して住むほかありません。そして、人口過密地となった下町では、ひんぱんに火事がおきることになります。有名な明暦の大火では、江戸市内のほとんどが焼き尽くされ、多数の死傷者と、保有米の焼失による飢餓のダブルパンチを受けたのです。
しかし、見方を変えてみると条件の悪い地域とは―――例えば洪水の起き易い場所は、水運が発達し易いということが言えます。また火事が起き易いということは、人口の多い大消費地が後ろにひかえているということになります。この江戸の街は、その成立期より商売繁盛の鍵てある消費と流通の二大要素が目の前にぶら下がっていたわけで、商人にとって、またとない好適地だったわけです。
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江戸の商人は、中心部の人口密集地(日本橋・京橋・神田)から、より規制の少ない江東地区に競って蔵を建てるようになります(佐賀町、木場など、現在もこのあたりは倉庫街である)。この一帯は地価も安く、江戸湾や利根川水系の運河によって水運に恵まれ、商品の一大集積地となっていくのです。
蔵を消費地から離して建てるという方式は防火対策とともに、天候や災害によって左右される相場を見越した、市場に出廻る商品の調整を可能にしました。
もうひとつ見逃せないのは、彼らが、「燃えない蔵」という発想より、火事で店が焼失してもあくる日から営業が再開できるように、あらかじめ(Pre) 組み立てられ (Faburicate)、すぐに建築できるように加工された材木を常に用意していたことです。この現代を 先取りした”プレハブ建築”の発想、焼け跡からまたたく間によみがえる町屋の姿は、災害をものともしなかった江戸商人の心意気を示すものです。
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一方、災害は町人の精神構造をもしたたかに仕立て上げます。
「火事とけんかは江戸の華」と被災する立場の江戸っ子は謳いました。江戸の市井に住む下級武士も町人も、もとはといえば地方から出稼ぎにきた単身赴任者がほとんどでしたから、先祖伝来の土地や、家族をもたぬ彼らにとって、くり返される災害は、それ程深刻な問題ではなかったようです。むしろ自然の作り上げる大スペクタクルとしての見せ物の感すらありました。
しかし、施政者である幕府にとって、「江戸の華」火事は、最も恐れるもののひとつでした。
延焼を防ぐために「火除地(ひよけち)」として明地(あきち)、堀割りを各所に配置します。現在も 地名に残る広小路は、防火のための空き地です。芝白金にある土堤や、橋詰などもみな防火のためのものです。これらはすべて下町に集中してみられ、人口過密 地でひんぱんに火事が起こり、焼失して空地になった場所を「火除地」として新たに指定していったことがよくわかります。つまり火事の度に、街区の中になにやらあいまいで面白そうな空間が生じるわけで、それは日常とも非日常ともいわれぬ不思議な風景であったはずです。
街区の中に織り込まれたこの奇妙な空間には、自然発生的に人々が集まり始めます。それらの人々を目当てに商人や芸人たちが、仮設の露店や見世物小屋を建て並べ、お祭り広場へと盛り場化していきます。当然のことながら、施政者による取締りと盛り場とのイタチゴッコが現在まで続くことになります。
こうして町屋の中に無数にちりばめられた、広小路、橋詰、寄せ場、境内、横町、辻などの可変自在な余白の空間。これこそが江戸を江戸たらしめる風景の原 形なのです。
この『あいまいな空間が、江戸に続く「東京」を史上類を見ない、際限無く増殖し続けることのできる肥大都市へと成長させることとなったのです。
言葉が通じなくても、美しいまちはふたりの心をつないでくれる。江戸時代にはじめて外国人に出会った少年と江戸のまちの物語。