コップと水と幸せ
不幸でさえなければ、
それはあなたが、今幸せである証拠だ。
ここ最近、ふと考える。
いや、考えさせられているのかもしれない。
重たい腰を上げるようにゆっくりと、私がこれまで人知れず蒔いていた種がやっとこさ芽吹いてきた。
視界に入る眩い光に、どこか明るい希望をみる。
まだ弱々しいが、どこか言葉などでは到底表現されえぬ強さを感じる。
少しずつ、すこしずつ、その先のイメージする世界に伸びろ。
ただ、足元にしっかり根を張るのも忘れずに。
さて、今日は少しまとまった時間が取れたため、久しぶりのnote更新。
何を書こうか、、、なんて考える暇もなくすぐにテーマが向こうからやってくる。
「幸せ」
noteに綴るにしてはあまりにも壮大
かつ人類の永遠のテーマである「幸せ」。
なぜこれがふと思い浮かんだのだろうか。
それは、今自分が「幸せ」という価値観を体現した生き方が出来ているからだろう。
今の自分の姿など、去年の自分はこれっぽちも想像していなかった。
希望という光もない真っ暗闇を彷徨った去年の夏。
そんな時に出会ったとある話が、幸せに対する価値観を模る一つのピースとなり、今の私につながっている。
その話とは、フォトグラファーであるヨシダナギさんがエチオピア・スリ族の人々に「幸せ」についての価値観を聞いた時の話。
彼らに「どういう時が幸せか」と尋ねると、なんと彼らは幸せの意味がわからなかったそう。
もちろんこれは学力的な問題ではない。
なんと、彼らの間には「幸せ」という言葉がないのだ。(言葉がなければ概念さえも存在しない...)
「私たちは、人と牛が死ぬこと以外悲しくない。それ以外はいつも楽しい。」
彼らにとっては「幸せ」があたりまえの状態であり、わざわざそれを形容する必要がないからこそ、単語もなければ概念も存在しない。
私自身もこれまで幸せについてふとした時に考えたりすることはあったが、その時に考えていたのはおそらく、「特別な幸せ」だったのだろう。
人である以上、どうしても上をみてしまう。
ただ、なにも上をみること、なにかを望むことは決して悪いことではないと思う。だってそれは生物的な自然的本能であり欲求なのだから。
お腹がすけばご飯を食べ、眠くなれば寝て、好きな対象と身体を重ねる。
それはどれも生物に共通することではないか。
であれば、これまで通りの資本主義的な幸せでいいのではとも思う。
何かを犠牲にしてこそ得られるものが本当の幸せなのだ。
この弱肉強食の世界を生き抜いてこそ、幸せなどという人が創造したオアシスには辿り着けない。
いや、違う。
以降、私の「幸せ」の価値観はスリ族の言葉を拝借すると次のようになる。
不幸せ以外は全て幸せ
コップいっぱいに入った水が自分の幸せ。
頑張りすぎ、何か大切なものを見失っているときはコップが熱くなり水は蒸発し減っていく。
そうした不幸せを避けるために、水を加えるよう日々を努める。
そして、またコップいっぱいの元通りの状態にする。
ただそれだけでいいのに、
人はどうしてもコップを大きくしたがり、もっともっとと溢れんばかりの水を求める。
コップ満杯の水。
コップが割れるその日まで。
水が減ってはまた注ぎ足していく、そんな日々を紡いでゆくことこそ
私は「幸せ」と言いたい。
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