スポーツで感動を与えるという違和感
まず初めにこの記事は誰かを批判したいわけでなく、誰か個人がダメだと言ってるわけではありません。
「スポーツ選手が誰かを感動させるためにプレーするのは興醒めするのか」
昨日野球の独立リーグ、徳島インディゴソックスの中継実況を担当させて頂きました。
その帰りの車内で思ったことです。
「「スポーツで感動を与える」とか考えるな、発言するな。こっちは勝手に感動するから綺麗事いうな。」みたいな意見があります。
https://twitter.com/amneris84/status/977165478320734208?s=21&t=cWRU0ImPvDtqAXhtHx6Usw
こういうお声。もう一度言いますが僕はこの方個人を批判したいわけでも改心させたいわけでもなく、ただただ一般的な意見として目に留まりスポーツに携わる末端の者としてずっと考えていたので引用させていただいております。
そして自分なりの一応の答えが出ました。やったね中山!偉いじゃん!
それでは尊師中山様のその有難い答えを発表します。
選手が「感動を与える」という言葉を使うのは、選手がかつて「誰かに感動を与えてもらった」からである。
です。
昨日解説席には佐々木海渡選手が来てくれてました。
彼は千葉出身ですが千葉ロッテではなくソフトバンクファンだそうです。
ソフトバンクの本多選手が憧れだったと言ってました。
スター軍団ソフトバンクにおいて、正直そこまでわかりやすいスーパースターという印象はない選手です。いや盗塁とかめちゃくちゃすごいんですけど。
しかし佐々木選手は「小さい身体の本多選手が活躍する姿」に憧れたと語ってました。
おそらく子供の頃から野球をする中で、地元のロッテの選手や大柄な選手よりも本多選手のプレーが心を揺さぶる瞬間があったのでしょう。
佐々木選手が「誰かに感動を与えたい」と言っていたわけではないのですが、この佐々木選手の例から考えるに
選手自身がスポーツに「心を揺さぶられた瞬間」があるから僕もあの選手のように「感動を与える」人になりたいという選手がいるのは、全くもって自然なことだと思います。
外科医に助けられ「僕も誰かを助けたい」と思い外科医になった人に
「余計なことを考えずに縫合作業にだけ集中しろ!」って声かける人は変なやつです。
おそらく外科医の選手宣誓があれば「患者を助けるために!全力を尽くします!」っていう一文が入ると思います。
先に始めた兄に、同じ少年野球の先輩に、そしてプロの選手のプレーに心を掴まれ「あの人の様になりたい」と思い選手は成長していきます。
感動ビジネスだ、安っぽく感動とか言うな、その意見はわかります。
ただ幼い頃からスポーツに触れプレーに感動してきた選手が感動を与える側に回りたいと思うのはごくごく自然なことで、
そこはスポーツはみるけどプレーはしない人と乖離があるんじゃないかと思います。
なので選手が「感動を与えるプレーをしたい」と言ったら
「あぁこの選手は先人に感動を与えられて育ったんだ」と思ってみるのが、スポーツを観戦する際の健全な見方ではないかな、と思います。
ということを片隅に入れながら、今年も徳島インディゴソックスの応援よろしくお願いします!