人間の「居住」について:モンゴル旅行に行って考えたこと
今年の年末年始は、モンゴル旅行に行った。
総合評価としては「最悪」だったけど、これは私が悪い。
初めて大手旅行会社の団体ツアーに参加した。世間知らずだった・・・。
こういう団体ツアーに参加する人は、同じツアーに参加した人との交流も楽しみなんだよね。
ツアー参加者はほぼ全員が二人組で参加していて、私も夫と参加したんだけど、全ての昼食・夕食でなぜかペアを向かい合わせではなく隣同士に座らせるのよ。
そうすると目の前に知らない人が座るわけよ。黙ってるわけにもいかないから、何か会話しなきゃいけないじゃない。多分運営側の配慮なんだと思うんだけど。
それが5日間ぶっつづけよ。
心の底から人間嫌い、特に初対面の人は全員憎悪の対象である私にとっては、激しい苦痛だった。
もう大手旅行会社の団体ツアーには二度と参加しない。
で、そんな「最悪」の旅行でも、外国に行ったら何か学んで帰って来ちゃう不思議。
「居住」について話す。
モンゴル人の「居住」
モンゴルには遊牧民がいる、というのは有名な話だけど、現地に行ったらもっと複雑だった。
「遊牧民である。YESかNOか」という単純な問題ではなかった。
モンゴル人の「居住」の概念を表すとこうなる。
完全遊牧(どこにも定住していない状態)
⇅
半定住(人生の一時的なステージとして、1箇所にとどまっている状態)
⇅
定住
遊牧民をやったことがある人じゃないとわからないかもしれないけど笑、遊牧民は、草原の草の量次第で行く場所が変わる。ある場所の草をある程度食べたら移動する。
これをこのブログでは、勝手に「完全遊牧」と呼ぶ。
これに対して、半定住している遊牧民もいる。例えば、「冬だから移動する必要がない」という理由で1箇所にとどまっていることもあるだろうし、「子供の学校からあまり離れるとまずい」という理由もあるかもしれないし、「なんかそういう気分だから」ということで留まるのかもしれない。
ウランバートル市の郊外に出ると、そういう半定住者がスプロールした宅地もある。
更に定住している遊牧民もいる。
スプロールした宅地にそのまま現代的な家を建てた人はもう移動しない。ゲルのままでも、「近くにある草地だけで遊牧できるから、一々家を移動する必要がない」という人は定住状態に移行することがある。
モンゴルの面白いところは、これらのステージが「完全遊牧→定住」への一方向に進むのではなくて、逆方向にも進みうるということ。
ウランバートル市で暮らす生活に疲れた人々が、次の人生ステージとして完全遊牧、もしくは半定住を選ぶことが完全にありうるのである。最近、若者の間で遊牧が再流行し始めているらしい。
日本人の「居住」
これに対して、日本人の「居住」には1ステージしかないと言っていいと思う。
定住
以上笑
正確に言えば、定住にも「賃貸」と「持ち家」がある。大体若いうちは賃貸で暮らして、歳を取ったら持ち家だ(最近はその後また賃貸に戻ることもある)。
モンゴルのスペクトラムでいえば、それはもう「定住」という1ステージの中の誤差に過ぎない。
一応「転勤族」という人たちは色んな地点を転々とする。これについては、自分の意思で行く先を決められることは稀で、大体の場合、会社に命令されて移動しているに過ぎない以上、モンゴルの「半定住」と一緒にするのは無理があるだろう。
さらに、近年は色んな仕事が増えていて、旅行ブログを書いて生計を立ててる人もいるだろうし、YouTuberは撮影の一環で色んなところに住んでいる人もいるだろう。もしくは、ノマドな生活をしている外国人の方もいる。
申し訳ないけど、これらの例外的な方々については、「日本の一般的居住」を語る上では除外することにする。
今回の「一般的居住」は、「新橋駅でスーツを着て鞄を持ってる中年男性10人中9人が共通認識として持っているもの」というイメージで行かせていただくことにする。
我々日本人も最近、都市の生活に疲れて地方に回帰することがある。
しかし、回帰した先での人生プランは、「就職して、賃貸で家借りて、もしくは家を買って・・・」と完全に「定住」である。
我々の生活は定住に始まり、定住の中で這い回って終わる。でもそのことに気づくきっかけも、必要性もない。
そういう意味で、定住の枠組み以外を生まれながらにして選択肢として持つモンゴルの人々は面白いな、と思った。
「居住」する意味
ツアーの中で遊牧民の女性のお宅にお邪魔して、お話を聞かせてもらった。
一応ゲル住まいではあるんだけど、ゲルの周りの様子を見ると、「そこに住みたて」という感じではなかった。物置みたなのがあったり、その物置が倒壊してたりしたから。
このブログでの定義から行くと、彼女は「完全遊牧」ではない。少なくとも「半定住」ということになる。
彼女に質問できる機会があったので、「こういう生活(ゲルで郊外に住み、牧畜をして暮らすこと)をしていて、『良かったなぁ』と思うのは、どんな時ですか」と聞いたら、答えはこうだった。
「家族と過ごす時間を十分に確保できる時」
・・・まあこれって当たり前と言えば当たり前のことで、多分家族と暮らす人だったら遊牧民じゃなくても99%同じ答えが返ってくる気がするよね笑
すごいベタな答えなんだけど、だからと言ってそれが「遊牧生活には利点がない」とか「原始的である」とかいうことにはならない。
むしろ逆なんじゃないだろうかと思う。これが「人間の居住」の真の目的なんじゃないかなって。
居住とは、「家族と豊かな時間を過ごすためにすること」なんじゃないだろうか。
「豊かな時間」は人によって色々だ。
部屋が小さくても、家族全員の個室がなくても、家族間の隔たりがなく団欒することが「豊かな時間」なら、家はゲルでもいいし狭小住宅でもいい。
子供や犬が庭や草原を駆け回るのが「豊かな時間」なら、庭付きの家に住むか、草原に住むべきだ。
「豊かな時間」を過ごそうと思っていた家で、子供が子供部屋に引きこもったり、ゲームに依存したりするとすれば、最早何のための「居住」なんだかよくわからない。
私にとっての「豊かな時間」は、タワマンにはない。というか東京23区にはないような気がしてならない。
そんなことを考えたクソ旅行だった。
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