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日本語における「不幸」と「不運」の混用
「レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語」という児童書があるよね。
数年前に主演ジム・キャリーで映画にもなった。
私はこのタイトルを聞くたびに、これは誤訳だと思う。
原題は、”lemony snicket's a series of unfortunate events“。
Unfortunateは「不幸」ではない。「不運」。Unlucky。
(文脈によっては、「不都合」と訳した方が自然な時もある)
で、不幸と不運には雲泥の差があるわけよ。
「世にも不運な物語」の場合は、運が悪い話なんだけど、必ずしも主人公たちがそれに打ちのめされているとは限らない。タイトルからそれは読み取れない。
「世にも不幸な物語」の場合は、主人公が完全に敗北していて、自分の人生から逃げ出したいとさえ願っているということになる。
今回の場合は、話の内容からして「不運」が正しい。
なので、「レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語」は、「レモニー・スニケットの世にも不運な物語」であるべきなのだ。
日本語における「運」と「幸」
と言いつつも、翻訳した人が「不幸」を選んだ理由はよくわかる。
日本語では、「運」と「幸」がきちんと使い分けされていない。そもそも「不運」「幸運」という言葉をほとんど使わず、「不運」なことを「不幸」といい、「幸運」なことを「幸せ」という。
例えば、「不幸なことが続いている」という言い回しは、実際は「不運なことが続いている」ことを表現しているし、「幸せなことがあった」は実際は「幸運なことがあった」ことを示している。
私はこの混用が大嫌いだ。
「幸運・幸せ」の方は問題ないが、「不運・不幸」の混用には、精神衛生上悪影響があると思う。
言葉を尽くして説明すれば、「不運」とは、「自分の不利益になるような出来事を確率的に引き当てる」ことである。
「不運」なことは変えられない。交通事故に遭うことは、遭わないことと比べて常に「不運」だし、愛する人を失うことは、失わないことと比べて常に「不運」だ。
一方、「不幸」は変えられる。
「不幸」は英語ではUnhappyと言う。
英語にすると途端にわかりやすくなると思う。そう、不幸とは「自分の気持ち」に過ぎないのだ。
「運」は確率だが、「幸」は主観なのだ。
確率は操作できない。でも主観は変えられる。
混用の影響
まず「変えられないものと変えられるものを混用する」という処理自体が意味不明だけど、それ以上に、「変えられるものを変えられないものであるかのように誤認させる」という最悪の事態を引き起こしていると思う。
「不運」と「不幸」が混用されていると、こんな悩みが「論理的っぽく」成立してしまう。
「貧乏な家庭に生まれてしまった。こんな不幸な人生は、早く終わらせるべきでしょうか。」
でもこれは明らかに論理の飛躍だ。
貧乏な家庭に生まれた不運は変えられないが、それを不幸に感じるかどうかは自分で決めている。
「崩壊した家庭に生まれてしまった。もう私は幸せになれないのでしょうか。」
これも論理の飛躍だ。
崩壊した家庭に生まれた不運は変えられないが、それは幸せ(Happiness)とは無関係のはずだ。幸せは主観であって、出来事ではないからだ。
本当は変えられるものを「変えられない」と感じて絶望する。絶望は命を奪う。
この馬鹿げた混用によって、命を落としている人が多分いる。
Say What you mean, mean what you say
「意図することを言い、言った通りのことを意図しろ」=「言葉と意図を一致させろ」という英語の格言がある。
「不運」と「不幸」については、特にこの格言がしっくり来る。
「不運」と「不幸」に関しては、完全に言葉と意図を一致させるべきだ。
変えられることに絶望したり、自分の選択肢を見失ったりする事故を防ぐために。
「不幸」はいつでも常に変えられる。
それを忘れないために、そしてそれを周りの人々に伝えるために、「不運」と「不幸」は常に使い分けるべきだと私は思う。