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映画「めぐり逢い」を見て
2012年59歳のある日、ふと、「このままでいいのだろうか」という疑問が湧き、生活を変えたい、今まで経験したことがないことをやってみようと思った。その思いは日に日に強くなった。それならニューヨークに行ってみたい。1957年制作のアメリカ映画で、エンパイアステートビルが重要な役割を果たす『めぐり逢い(An affair to Remember)』はお気に入りの映画だ。
この中で、それぞれ恋人と婚約者のいる二流画家のニッキーと元歌手のテリーはクルーズ船の旅で知り合い恋に落ちる。本物の愛かどうか確かめるために、半年後にエンパイアステートビルの展望台で再会しようと約束する。だがニッキーは行く途中で交通事故に遭い半身不随になり、約束を果たせなくなってしまう。それでも、彼の絵をひそかに買って思い続ける。二度と会えないと思っていたが、最後にはとうとう再会を果たすというロマンチックな映画だ。この映画を見て、いつかエンパイアステートビルの展望台に上ってみたいと思っていた。
そこで、この年の9月に、思い切ってニューヨーク行の飛行機のチケットを買った。9月2日、まだ30度を超える暑い日に成田空港から出発する。約12時間後にニューヨークのジョン・F・ケネディ空港に着くと、いくらか涼しく感じられた。その後、車で予約したセントラルパーク近くの宿泊施設に向かう。
翌日月曜日は勤労感謝の日で祝日だった。早速、地下鉄の「ブロードウエイ33丁目」から5分のところにある、高さ443メートルのエンパイアステートビルに出かけた。入口は思いのほか小さく、一見それとはわからない。
守衛のいるロビーを通り、二階に上がり、その後セキュリティー・チェックを済ませて入場券を購入する。途中エンパイアステートビルの写真の前で、隣に並んでいた観光客に写真を撮ってもらった。
エレベーターに乗り込み、まず80階の展望台で降りる。ぐるりと一周した後別のエレベーターに乗り変えて、やっと86階の展望台に到着する。扉が開くと、フロアは映画と同じ作りに見えた。胸が高鳴る。ここはニッキーが暗くまるまでテリーを待っていた場所だ。彼は制服姿の年配の守衛に、「最後のエレベーターですよ」と声をかけられて、やむを得ずエレベーターに乗り込む。
私は思い切って、「『めぐり逢い』はここで撮影されたのですか?」
と守衛に聞いてみた。
「さあねえ。ここでは沢山の映画が撮影されるからね。なんとも言えないね」
とそっけない返事だったが、質問できただけで満足だった。
そこから展望台に出る時に、狭い出入り口が映画で見たとおりだったので、とうとうエンパイアステートビルに来たという実感が湧いた。
沢山の入場者の間をぬって、ぐるりと一周する。ここがマンハッタン島だ。ハドソン川を時折船がゆっくり通っていく。その向こうには、映画でよく見た高層ビル群がある。思っていた通りのニューヨークらしい光景だ。
船を見ながら、家庭にも仕事にも大きな問題はないのに、何故これほどまでに生き方を変えてみたかったのかを考えた。老いに対する不安があったのか、自分でも気づかない何かが物足りなかったのか。しばらく考えてもはっきりした答えは出なかったが、長年心に引っかかっていた英語圏への一人旅ができて、ひとつのハードルを越えられたのは事実だ。心が晴れ晴れとするのを感じた。
しばし余韻に浸ってから、再びエレベーターでロビーまで下りた。外に出ると、自動車の波と人で混雑する通りは50年以上たったことを感じさせない。一瞬、タイムスリップしたような気がした。