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俺の15年間は一生の宝物

城西大学経営学部マネジメント総合学科 4年
本多祐希

お疲れ様です。
同い年なのに学年が違う高田くんから紹介をされました。

最初に、父、母、そして、私のサッカー人生に関わってくれた皆様、本当に感謝しています。
ありがとうございました。

私自身、感情を乗せた思いを文にすることが苦手ですが、最後まで読んで頂けたら幸いです。

ハンカチの準備はしなくて大丈夫です笑

それでは始めさせてもらいます。


小学校一年生の頃、人より身長が大きかった自分は、

「キーパーやってよ」

この一言から、サッカーと言うものを知った。

小学生二年生の時、母にクラブチームでサッカーがしたいと伝えた。
やるなら強いところでやって欲しいと言われ、とりあえず地元で強いと評判の城北アスカと言うチームに練習参加をすることになった。

浮間舟渡駅にある、子供スポーツ広場、母親と緊張しながら、グラウンドに向かう坂道を歩いてたら、
後ろから、「こんにちはーーーー」と、原付に乗った監督と走りながら勝負する同い年くらいの男の子。

原付と勝負しながら挨拶をしてくれたのは、ゆうたろうでした笑

グラウンドに着き、初めましてのサッカー。
普段ポジションはどこなのと聞かれ、公園でキーパーやってますと伝えた。

初めての練習でキーパーをすることになり、ゴールキックでどこにボールを置けばいいか分からず、

監督から一言

「ボール置く場所わからないならフォワードやれ」

これが、フォワードを始めたきっかけ。

ある日、家族に行ってきますと伝えた10秒後、自転車に乗り、家の前にある信号を青で渡ったら車に撥ねられた。

自分より大きいリュックを背負っていた為、無傷。

いやいや奇跡すぎるでしょ。

強いて言うなら二の腕が痛くて、救急車に乗り湿布を貼って、そのまま試合に向かった。

監督に事故に遭った日に試合に来るやつなんていないと言われ、二の腕に貼ってた湿布にCと書かれた。
いや誰がキャプテンマークだよ。
今ならこうやってツッコメたのに、当時は車に撥ねられようが、サッカーが出来ることが嬉しかった。

それぐらいサッカーが大好きだった。

中学生になり、セレクションと言うものを初めて受けた。記念受験とか言って受けたFC東京。
考えが浅はかだった。当然一次セレクションで落ちた。

切り替えて本気で挑んだ三菱養和巣鴨。
栗原イブラヒム・ジュニアにスライディングとかしてみた。最終で落ちた。

最終的にみんながいるからと言って受けたTFA「田口FA」に入った。

いや、なんだこれっていうくらい壮絶だった。

夏の合宿では試合に勝ったのに走りと言われ、
なんで走りなんだよとつぶやいたら、ブチギレられた。
結局グラウンド一人取り残されて、みんなは海に行って走って笑顔で写真を撮ってた。

入れ替え戦。
トッカーノに負け、クリアージュに負け、残留することできず降格した。
クリアージュ戦では、後半2ー3負けてる状況で、ラスト5分試合に出させてもらい、何もできず試合に負けた。

監督から一言

「お前のせいで負けたんだよ」

何もできなかった。何も言えなかった。悔しかった。


苗場合宿で試合中相手に思いっ切り膝を蹴られ。
音が聞こえた。

「パキッ」

膝の軟骨が剥がれてしまい初めての手術。
復帰するまでに一年くらいかかった。
入院中ベットの上で仰向けになり、膝を曲げ伸ばしするリハビリ一日三時間を三セット。
頭がおかしくなりそうになり、サッカーを辞めようかまで考えた。
それでも毎日お見舞いに来てくれた父と母、
監督やコーチ仲間も来てくれた。


よく耐えた。よく復帰できた。


他にもたくさんあるけど、長くなりそうなので、有名なやつを箇条書きに残します。

荒川の土手でお前いらないから帰れと言われ、帰宅。
電車でクレームが入りその電車に乗ってたやつ全員坊主。
FC東京と練習試合に負け、前日のオフにプールや海行ったやつ、1週間グラウンド100周
十条富士見中学で行われたサッカー辞めちまえ事件。
栃木遠征にて「おっまっえぇ」と言われながらスタッフに背負い投げされる。


いや苦しかった。


それでもなんやかんやサッカーが大好きだった。


高校は勉強が出来ないためサッカーで成立学園高等学校に入学した。

クラスはサッカー部と野球部の男だけのクラス。
アスリートコースと呼ばれてた。
成立学園に入る前にアスリートコースは刑務所と呼ばれていた。
理由は、高校2年生まで本校舎で授業することがなく、成立学園の横にある成立幼稚園の地下にある教室で勉強を行うからだ。
電波はもちろん悪く、男だけのクラス荒れに荒れた。

サッカーの練習自体は14時から始まって大体2時間くらい。
毎週火曜日の走りは憂鬱だった。
4周走、1周走、半周走、もういい加減にしてくれっていうくらい沢山あった。
でも、練習終わった後は仲間と19時半まで自主練習をした。
試合で見つけた課題、練習中に見つけた課題、自分なりにひたすら向き合った。

土足でクラブハウスに入り、スタッフにバレて1番下のカテゴリーに落とされてる奴もいた笑
だよね?けいすけくん。


そんな、何も変わらない日常が一気に壊れた。


「コロナウイルス」


楽しみにしてた修学旅行。俺の初海外の台湾。当時東京で50人のコロナ感染者が出た為、無くなった。

それだけじゃない、イギョラ杯、関東大会、インターハイ、全部無くなった。
なんの為にサッカーをやっているのか分からなくなった。
オンラインでの授業、オンラインでの筋トレや軽いスッテプワークの練習。ちょっとした画面からバレないようにふざけてるのが見える瞬間が唯一の楽しみだった。

なんやかんや学校も練習も再開され、残されたのはT1と冬の全国高校サッカーだけ。

T1では優勝することができた。
だが、コロナの影響で入れ替え戦はなく、T1優勝だけが残った。

選手権前に足首を捻挫した。頑張ってリハビリをして、どうにか復帰できたものの、準々決勝敗退となった。西が丘にすら行けなかった。ベンチには入れたが試合に出ることはなく、3年間の高校サッカーが呆気なく終わった。


相変わらず勉強が出来ないためサッカーで
城西大学体育会サッカー部に入部した。

大学生はそんな甘くなかった。

1年目、
初めての練習試合、上武大学戦、

こうたろうさんに

「高校のノリでサッカーやってんじゃねえよ」

と一発目から怒鳴られた。
焦った自分はファウルが増えてしまいイエローカードをもらった。第一印象はただのクソガキで終わった。

不貞腐れながらサッカーして、フットサルをやれと言われ、できるわけないフットサルをやり、気がついたら一年が終わっていた。


2年目、

最初のカテゴリーはAチーム

「今のままじゃ試合に出せない」

と言われ2週間くらいでBチームに落とされた。
Bチームに落とされた初めての練習は雨が降っていた。
競り合いで着地の失敗、足首の捻挫。
全治4ヶ月。

怪我をして落ち込んでる暇はなく、サッカーで成長する為に出来ないフットサルも頑張った。
くせものしかいない先輩はただのやからでしかない。
柊斗、磯貝、森高、彩斗、南陽、祐里、柳、
パスミスしたらごめんと謝り、気がついたら成功しても謝っていた。
いま思えば凄い人たちと練習ができていた。
感謝しかない。ありがとうございました。

3年目、

Iリーグ初戦の順天堂大学戦、前半0ー3で折り返し、前半で交代、ここから出場機会は減った。

後期が始まる前の夏合宿、今まで試合に出れなかった分、走った、声を出した。

でも、俺の頑張りを何かしらで邪魔される。

遠征1日目、ヘディングしようとしたら、相手に押され喉仏にボールが当たり、朝食をグラウンドにぶちまけた。
遠征2日目、ももかんされ、後ろからスライディングされ足首を捻り交代。
遠征3日目、なんとかテーピングを巻いて復帰したもの、相手のクリアがみぞおちに2回も入りダウン。息ができなかった。立てなかった。

気がついたら遠征が終わり、ネタ枠になっていた。

そして迎えたIリーグ後期、スタメンだった。
奇跡が起きた。やるしかない状況、必死に戦った、
6試合連続ゴール。遠征のネタ枠が嘘みたいだった。
なぜか結果が追いついてきてた。

1部参入プレーオフまで来ることができた。
プレーオフ、vs.関東学院大学戦
前半のいい時間帯に馬場の一点。後半には、大塚にロドリが宿ったロングシュート。
2ー0でチームは勝ち昇格することができた。
嬉しかった。

そしてまさかのこうたろうさんが城西を離れることになった。

こうたろさんとの二者面談では、最後に恋愛話をするとかみんなが言ってたからふわふわした気持ちで行ったら。

泣かされた。

お世話になった恩師が自分が4年生になる時にいないのは、辛くて悲しく、悔しかった。
でも、見返してやろうとも思った。

4年目、

大学生活最後のシーズン。
まさか、就活に明け暮れていた。今までサッカーしかしてこなかった自分が、サッカーが無くなる生活のことを想像できなくて、自分がどんな仕事について働きたいのか全く分からなくなっていた。
同じ日に別の会社の面接を二つ入れたこともあった。

サッカーもフットサルも就活も曖昧になってしまう時期があった。

とにかく血迷っていた。

なんとか内定をもらうことができ、
やっとサッカーに集中できると思った。

Iリーグ一部残留。

フットサル全国大会優勝。

この二つを目標に頑張った。

サッカーでは

Iリーグ1部残留することが出来た。

理由は特にないけど、アウェイの試合の際、雨が降っても、どれだけ遠くても原付で行っていた。片道3時間かかる場所まで行ったこともある。
頭おかしいとかたくさん言われたけど、なんか分からないけど調子が良かった気がする。

でも、ホーム最終節vs駒澤大学戦

雨が降っていた。

前半20分足首を捻ってしまい交代。

悔しくて言葉もです涙だけが流れて試合は終わった。
結局4年間トップチームに絡むことはなく、
ここで俺の15年間のサッカー人生が終わった。


フットサルでは、

埼玉県大会優勝

関東大会優勝

全国大会準優勝

あと一歩届かなかった。

いろんなこと言われた。サッカーから逃げてるからとか、相手が弱かったからそこまで行けたとか、
結果が全てのスポーツでは何も言えなかった。
悔しかった。

柴さんごめん。


でも1番悔しかったのは、プロになりたいと思って始めた大好きなサッカーが。
プロになるという夢を諦め、高校や大学に行くための道具になっていたということ。
悔しくて涙が止まらなかった。

最後に同期へ、

こんな頭のおかしい自分の相手をしてくれて本当にありがとう。めっちゃ楽しかった。
もう俺の御託を聞けなくなるって思うと寂しいでしょ笑 寂しいよね?笑

みんなそれぞれの場所で今までやってきたサッカーのように情熱を持って一緒に頑張りましょう!
ご飯でも飲みでも、誘うし誘ってください。
終電がなくても原付で飛んで行きます。
みんなのこと本当に大好きです。

あと、新太12年間ありがとう笑
新太がいたから城西に入ること決めたしみんなに出会えました。本当にありがとう。



15年間のサッカー楽しかった。


結論サッカーが大好き。


長くなり、まとまりもない、感情任せの文章を
最後まで読んでいただきありがとうございました。

そして次は、なんと、
12年間一緒にサッカーをしてきた。
び、びん、あっぶね、、新太くんです。
俺は本気で新太が1番サッカーが上手いって心の底から思ってたぞ♡
そんな、新太くんのブログに期待しましょ!

本多から新太にBゾーンへのスルーパス

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