「愛」をそそがれ
私は徳島の田舎で育った。そして、双子の兄のいる三兄妹の末っ子長女。待望の女の子が生まれたと近所の人も喜んでいたとか。もちろん両親も私にベッタリだったと思う。
私の育った町はお母さんが育った町。自営業をしている関係でお店をお母さんが引き継いだからだった。お母さんはお店もあるので家にいることがほとんどで、お父さんはサラリーマンとして外に出ていることが多かった。
自営業ということで、家には誰かがいる状態あったので寂しいと思ったことはなかった。
小さい頃と今も気持ちは変わらないけど、私は両親が「憧れ」だった。
というのも、二人は高校の同級生。普段から二人でよく出掛ける、同窓会にも仲良く一緒に行ったり、共通の話題も多く、学生時代から気心が知れた人と結婚するのっていいなと小さい頃の私なりに感じ、両親の結婚・夫婦生活や関係性が憧れだった。
私は高校卒業後に大学進学で関西に行った。親元を離れ一人で過ごしていく中で両親に対する「憧れ」という言葉以外にも感じるたことがあった。それは、「感謝」という言葉だった。
関西での初めての一人暮らしは慣れないことの連続だった。食材を買いにスーパーに行ってご飯を作れば、使ったお皿を洗う、自分の服を洗濯して干して乾いたら畳んで片付ける。苦手な掃除も定期的に行わないといけない。楽しいと思えるときもあったが、忙しいときには「あとでいっか~」と、やりたくないと色んなことを後回しにしていた。実家に居たときは、朝起きれば朝ごはんがあって、お風呂も沸かしてくれていて、洗濯カゴに洗濯物を入れれば次の日夜には畳まれていて、当たり前のように過ごしていた日常が当たり前じゃなかったんやなと思えた。親のありがたみを感じた大学生活だった。
実家を出ることで感じられた「感謝」をどうしても形にしたくて誕生日や母の日、父の日、結婚記念日は祝っていた。
一番思い出深いのが、銀婚式。仲の良い二人でゆっくり旅行してほしい。と思い、兄妹で旅行券と花束のプレゼントを渡した。お父さんは少し照れながらも嬉しそうで、お母さんは驚いて号泣していた。私もそんなに喜んでくれるのかともらい泣きしてしまった。後日、旅行券を使って長崎に旅行に行った話を楽しそうに話す姿をみて、「ちょっとは感謝の気持ち伝えられたかな」と私も嬉しい気持ちだった。
そして、社会人になることをきっかけに東京で仕事をすることになった。入社式の日に会社の人がサプライズで両親に手紙をお願いしていて、手紙をもらった。そこにはお母さんとお父さんの「愛」が詰まっていた。
今でも「頑張ろう!」と気合いを入れ直すときや、上手くいかなくて落ち込んだときにも読んでいる。読み返すといつも思う。
小さい頃に私が「やってみたい!」と興味を持ったことは全てやらしてくれた。小学生の頃は毎日何かの習い事をしていたほど。きっと両親は、私が私の好きなことは何かを知ること、好奇心のままにのびのびとされてくれた、可能性を信じてくれていたからこそだと思う。正直、充実していたけどしんどいことも多かった。泣きながら「もうやりたくない、辞めたい!」と訴えたこともあった。その度に励まされ、お尻を叩かれるような気持ちで送り出してくれていた。愛のある厳しさが私を強くさせてくれた。ありがとう。
お父さんとは、小学校の頃に私の入っていたバレボールのコーチになったことをきっかけに少しずつ距離が出来ていってしまった。いつも優しいお父さんが怒っていたのが嫌で怖かったんだろうな、きっと。ごめんなさい。
お父さんはいつも家族のことを考え、そして私のことを応援してくれてた。「自分の夢に向かって頑張れ!」って手紙に書かれているのを見る度に胸がギュッと苦しくなってる。私、頑張るけんね。また話聞いてね。
お母さんは生まれ育った町のためにも様々な活動をしている。身近に起こったことが、私の小学校に学童保育を併設させたのもお母さんだった。約10年間くらい運営、シフトの管理等行っていた。行動力、実行力は「尊敬」そのもの。お父さんも高校卒業後から働いている会社で定年まで働く、このことも私が社会人になってから実感したが、本当に「尊敬」できることだと思った。
「憧れ」でもあり、「尊敬」できる、「愛」をそそがれていること、不自由なく育ててくれた「感謝」をすべてをひっくるめて「素敵」な両親だと思う。
私を産み、私の一番近くで、誰よりも一緒に過ごした「お母さん」。
私を誰よりも気にかけ、陰ながらに支え続けてくれている「お父さん」。
私の原点はここ。
二人にそそいでもらった「愛」を、私も周りの人にそそげたらいいな。
p.s.
お母さん、お父さんいつもありがとう。
私の帰る温かい場所をありがとう。
これからもよろしくね。