パワースポット・寒川神社と、謎多きご祭神② ~富士山王朝序編~
先日の続きです。富士山王朝と寒川神社は密接な関わりがあります。
寒川神社は、神奈川県にある全国で唯一と称される八方除の神社。その霊験は素晴らしく、引っ越しや転職、開業など人生の節目にぜひ訪れたいパワースポット。転居先でトラブルが相次いだ際のご開運!神社として、(方位に起因する悪事災難を除くために)寒川神社でお祓いを受ける人も多く、寒川神社のご祈祷数は年間約30万件に及び、その数は日本一。
明治時代以前は、陰陽師とのつながりもあったようで、神社内には、方徳資料館があり、そこでは八方除けや天文学の展示のほかに、陰陽道、陰陽五行説についての説明と、安倍晴明などの陰陽師が式占(六壬占)をする際に使用した「六壬式盤」(りくじんしきばん)の復元模型があります。
・パワースポット・寒川神社の八方除とは?
寒川神社の八方除けとは、地相・家相・方位・日柄などに起因するすべての禍事・災難を取り除き家業繁栄・福徳円満をもたらし」(公式サイトより)、身に降りかかるあらゆる厄災から身を守ってくれるご神徳。
八方にあるすべての厄難を取り除いてくれるという意味があるとされ、皇居の南西・裏鬼門に位置し、さらに富士山や元伊勢内宮とも不思議な繋がりがあると言われています。ゲッターズ飯田さんをはじめとした占い師たちの人気も高い神社。
そんな寒川神社は「寒川比古命(さむかわひこのみこと)」と「寒川比女命(さむかわひめのみこと)」、二柱の神様を祀り、寒川大明神と奉称していますが、古事記にも日本書記にも登場しない、謎多き神さまです。
寒川神社は神奈川県の相模川のそば、海老名と茅ケ崎の間に位置しています。 最寄り駅はJR相模線の「宮山」駅。駅からは徒歩5分ほどで、道案内順に歩けば、迷わずにたどり着けます。
・天文学(陰陽師)と寒川神社のつながり ~レイライン~
寒川神社が有名なのはもう一つ理由があります。それは「夏至」「冬至」「秋分の日」「春分の日」のすべてに、寒川神社の真上を太陽が通るから。寒川神社は、太陽が大きく関係している不思議な場所に鎮座しており、これを「レイライン」、あるいは「ご来光の道」と言います。
「レイライン」とは古代の遺跡などに見られるもの。古代の遺跡群をつないでいくと、なぜか一直線でつながったり、太陽の通り道上に並んでいたりする不思議な現象をさすもの。レイラインが提唱されるケースにイギリスのストーンヘンジなどの巨石遺跡群があり、イギリスの原住民であったケルト民族は、森と話す、自然と話す、木を信仰するという「自然を愛する」DNAを持ち、多神教でもあるなど、縄文の人々と共通点が多い民族。
寒川神社は古代から天文学と縁の深い神社で、それが高じて陰陽道とつながり、八方位除けの神社と変遷を遂げました。
寒川神社が八方位除けの神社となったのは明治時代から・・。もともとは、陰陽道から来る災禍を除く神さまとして信仰されていました。
陰陽道は天文学を重要視します。有名な安倍晴明も、天文暦学の道を極め、天文陰陽博士として活躍しました。
しかし明治時代に入って神道の世界で大変革が起こり、その影響で、公的に認証を受けた職業としての陰陽師はその存在を禁止されました。
それまでは(日本各地の)神社の神主の中には、陰陽師を兼任する人も多く、陰陽道は生活に根付いたものでしたが、明治政府により、神主が陰陽師を兼任することも、許されなくなります。
それまでは、(天文学を学んだ)陰陽師が民衆に、台風の到来時期や、天候の予測を通じて、農耕(稲作)の収穫アップ情報や、風水、そして凶事を避けるためのアドバイス(占術など)を行い活躍していたのですが、これらの仕事が禁止され、陰陽師の時代は終焉を迎えました。
(※ちなみに、これまで神道の再設定は2度起こり、いずれも大変革の時代でした。一度目は平安時代で、二度目が明治時代。平安期の神道の再設定は、秦氏や密教が影響しています。弘法大師・空海も語学が堪能だったせいか、ヘブライ語を使用しています。
これらの神道の再設定は、セオリツ姫・ワカ姫といった縄文女神たちの活躍と少し関わるので、これらの女神たちについて書いた後、書いていけたらいいな思っています。)
寒川神社も古くは天文学(陰陽道)の神社として名高かったようですが、明治政府により陰陽師(天文学士)制度が禁止された後、八方位除けをアピールした神社として、全国から崇敬を集めます。
寒川神社周辺は大規模な縄文遺跡の集落があり、その規模は青森県の丸の内遺跡に匹敵するものでした。しかし高度成長期、ほとんどの遺跡は壊され、現在、その面影は残っていません。
・春分の日、秋分の日の寒川神社のレイライン(太陽の通り道)
寒川神社の社殿によれば、創建は(456~479年)で、1600年以上の歴史があります。これは今から約1600年前、太陽の運行を観測し、天文学を学んだ人々によって、「夏至」「冬至」「秋分の日」「春分の日」のすべてに、寒川神社の真上を太陽が通る場所に、寒川神社はつくられたということ・・。
このことは寒川神社が、古くから天文(星々の運行)学と縁の深い神社であり、それは、謎に満ちた寒川神社のご祭神とも関係していました。
ちなみに寒川神社では、春分の日/秋分の日限定で、御来光守という、特別なお守りを配布しています。
寒川神社では、春分の日/秋分の日に、千葉県の海上から太陽が昇り、それにそって、玉前神社⇒寒川神社の頭上に太陽が移動し、さらに富士山頂を抜け、最後に出雲大社を通って、太陽は沈んでいきます。
1600年前に、これらの太陽の運行を観測し、ご来光のルート沿いに寒川神社をつくった、天文学に秀でた人たち・・。古代の人々の叡智はすごいなと感じます。
・謎多き寒川神社のご祭神たち ~富士山王朝とのつながり~
寒川神社のご祭神は寒川古比命と寒川比女命と伝えられますが、古事記や日本書記には記述がなく、謎に満ちた神さまです。
そんな寒川神社の本当のご祭神については、いくつか諸説があります。
①徐福説。
丹沢山系に、農耕や酒造り、酪農などの大陸の優れた技術を伝えたとされる秦氏・徐福がご祭神の説です。
②国狭槌尊(くにさつちのみこと)
天地開闢のときに現れた神世七代の一柱で、 「五穀豊穣」などのご神徳がある神さま。
神名「サツチ」の「サ」は神稲、「ツチ」は土、即ち神稲を植える土の意。
もともと寒川神社のご祭神は、こちらの国狭槌尊がはじめは祀られていた、との説があります。
③月読尊(ツクヨミ・ツキヨミ)・大山祗(オオヤマズミ)神
「神皇紀」によると、月読尊の長男の名前が『寒川比古命』。
一説では、『月読尊と寒川比古命』親子を、『オオヤマズミ神』とします。ですが、親子で漢字は違い、父の月読尊は『大山祗(オオヤマズミ)』神。長男は『大山津見(オオヤマズミ)』命です。
寒川神社のご祭神は、月読尊とオオヤマズミ(大山祗・大山津見)神の親子とも伝えられます。
オオヤマズミとは、オオヤマツミが語源で、「大山を積む(統べる)」の意味。これはどうも、父から長男に継承された役職のようなもの。
この「大山」は神奈川県の「大山(阿夫利)」をさしていたようで、富士山王朝と、(神奈川県の)大山は、このあとの富士王朝の歴史で密接に関わっていきます。このことは、のちに書いていきますね。
また、大山祗(オオヤマズミ)神・大山津見(オオヤマズミ)命の親子は、別名『八咫烏(やたがらす』。この親子が没した後、ヤタガラスは事代主(ことしろぬし)に引き継がれた、とあります。
月読尊は、一般には『ツクヨミ』と呼ばれていますが、正式には『ツキヨミ』と読むようで、伊勢神宮では月読尊は『ツキヨミ』です。伊勢神宮末社に寒川尊も祭られています。そして、富士山王朝の歴代の王たちは、ツキヨミ(月夜見)を名乗る、月読尊の子孫でした。
そんな月読尊は縄文期、どんな役割を果たしていたのか?どうして月読尊が陰陽道と関わりがあるとされるのか?また富士山王朝とのつながりは??長くなったので続きますね。