ニコラス 第5章:暗殺者の過去
導入
夜明け前、ニコラスは日課の厳しい鍛錬に励んでいた。黙々と自分を追い込む彼に、毎日のように差し入れを持って現れるトリア。無口なニコラスだが、彼女の優しさに少しずつ心を開いていく。
そんなある日、ニコラスはトリアとキャシディの買い物に付き添う。しかし突如として謎の集団が現れ、三人に襲いかかる。戦闘の中で明らかになる意外な事実に、ニコラスは新たな使命を突きつけられる。
新しい敵の出現に、チームの戦いは新たな局面を迎えようとしていた。
1. 鍛錬と差し入れ
まだ星が残る午前4時、ニコラスは基地の訓練場で日課を始めていた。
Destrion計画に備えて編成されたチームTRANSCENDAの一員として、彼の鍛錬に休息は許されない。
「フッ…」
冷たい夜気の中、シャドウボクシングの動きが加速する。
無駄のない動作で繰り出される拳は、まるで実戦さながらの切れ味を持っていた。
体を温めた後は、基地の周りを走り込む。1周2キロのコースを10周。
息を整えながら、昨日のミーティングでロイが語った言葉を反芻する。
「Destrion計画の発動まで時間的猶予はないと見た方がいい。皆、いつでも戦えるように準備を怠らないでくれ」
走り込みを終えた後、彼はふと立ち止まり、遠くの空を見上げた。
東の空が微かに明るみを帯びている。
朝の訪れは、彼にとって日々の始まりを告げる合図だが、同時に戦いが近づく事実をも意味していた。
筋力トレーニングに移行すると、全神経を集中させ、体を限界まで追い込む。
重量を追加したバーベルを持ち上げる度に、背筋に走る緊張感が心地よい。
汗が滲むシャツが冷たい空気に触れるたび、彼は自分が生きていることを実感する。
「ニコラスさん、おはようございます」
朝6時、ちょうど懸垂を終えた時だった。トリアの声が静けさを破る。
振り向くと、彼女は小さな保温容器とタオルを手に立っていた。
いつもの差し入れだ。
孤児院で育った彼女らしく、無駄のない手際の良い仕草で準備を始める。
「今日はチキンのサンドイッチです。ハロルドが作ってくれた新しい保温容器のおかげで、今までより温かいままお届けできるんですよ」
料理を取り出しながら、トリアは楽しそうに説明を続ける。
「パンは孤児院のキッチンで焼きたてを分けてもらって。具は鶏むね肉のハーブグリル。それと、これはキャシディさんお勧めのブレンドティーです」
手際よく準備される朝食に、ニコラスは静かに目を向ける。
トレーニングで体が温まった後のこのタイミングは、栄養補給に最適だった。
「…いつも、すまない」
「そんな風に言わないでください。私、これ、楽しみながらやってるんです」
トリアは穏やかに微笑む。
「それに、今は全員が全力で準備するべき時期ですよね」
その言葉に、ニコラスは僅かに表情を引き締めた。
そうだ、彼女もまた、この戦いの当事者なのだ。
「Destrion計画か…必ず、止めてみせる」
「ええ。だからこそ、私にできることをさせてください」
トリアの瞳には、決意の色が宿っていた。
孤児院で育った彼女は、人を支えることの意味を誰よりも知っている。
「昨日のミーティングでロイさんが話していた通り、これからはチーム一丸となって…」
「ああ」
ニコラスは静かに頷いた。
「だからこそ、これ以上の無理は…」
「大丈夫です」
トリアは優しく微笑んだ。
「孤児院で、小さい子供たちの世話を任されていましたから。これくらいは大丈夫です」
朝日が地平線から顔を覗かせ始める中、二人は静かに朝食を共にした。
サンドイッチには適度な温かさが残っており、ハーブの香りが心地よい。
「美味いな」
珍しく、ニコラスから感想が漏れる。
「ありがとうございます」
トリアの顔が明るくなる。
「このハーブの配合もキャシディさんから教わったんですよ。免疫力を高める効果があるそうで」
ニコラスは黙って頷き、残りのサンドイッチに手を伸ばした。
やがて空が明るさを増す頃、ニコラスは再び立ち上がる。午前中のトレーニングはまだ続く。
「それじゃ私、行きますね。また作戦会議で」
トリアが片付けを終えて去っていく様を、ニコラスは静かに見送った。
再び構えを取りながら、彼は決意を新たにする。
己を鍛え、仲間を守る。
それこそが、戦士としての誇りであり、使命なのだから。
2. 路地裏の戦闘
静かな午後、ニコラスはいつものように荷物持ちとして、トリアとキャシディに付き添っていた。
街は穏やかな春の陽射しに包まれ、マーケットには新鮮な野菜や果物を求める人々が行き交っている。
露店から漂う香ばしいパンの香りが、通りを歩く人々の足を止めていた。
「今日はいい天気ですね。ニコラスさんもたまには街を楽しんでくれたらいいのに」
トリアが優しい声で話しかけるが、ニコラスは相変わらず無口なまま、大量の荷物を黙々と運んでいる。
彼の腕の筋肉が荷物の重みで僅かに緊張するのが見えた。
「あら、向こうのお店、新しいケーキが並んでるわ。帰りに寄っていきましょう」
キャシディが柔らかな笑顔を浮かべる。
「本当ですね!ハロルドも絶対喜ぶと思います。彼、甘いものが大好きですから」
トリアが目を輝かせながら応える。
「ほんと、ニコラスって頼りになるわね。これだけの荷物を持っても顔色一つ変えないんだから。たまには休憩したいって言ってくれてもいいのよ?」
キャシディが微笑みながら冗談めかして言う。
その仕草には何とも言えない優雅さがあった。
「…気にする必要はない。これくらいの重さ、なんてことはない」
珍しくニコラスが言葉を返す。
狭い路地に入った瞬間、空気が一変した。
ニコラスの戦闘本能が警告を発する。微かな足音、そして僅かな呼吸音。訓練された者たちの気配だった。
「トリア、下がって」
ニコラスの声が低く響く。
「え…?」
戸惑いの声を上げるトリアの背後で、黒い影が蠢いた。
「…誰だ!」
ニコラスが鋭く叫ぶと同時に、黒づくめの集団が路地の両側から現れた。
黒衣に身を包んだ彼らは、無言のまま三人を包囲していく。その動きには明確な訓練の跡が見られた。
ニコラスは瞬時に荷物を投げ捨て、トリアを背後に庇う体勢を取る。
「…7人、いや、まだ隠れているな」
だが奇妙なことに、敵の視線は一様にキャシディに向けられていた。
その眼差しには、まるで長年の標的を追い詰めた者たちの執念が宿っていた。
「なぜ、キャシディを…?」
ニコラスの疑問は口から漏れる前に、敵の一人が動いた。
その動きは明らかにプロのものだったが、ニコラスの反応はそれを上回った。
彼は一瞬で間合いを詰め、左腕で相手の突きを弾きながら、右の掌底を顎に叩き込む。
相手の体が宙に浮く瞬間を捉え、回し蹴りで更に二人を薙ぎ倒した。
「この程度か?」
氷のような声を漏らしながら、次の敵に向かって踏み込む。
正面からの攻撃を装う敵を片手で押さえ込みながら、背後から忍び寄る男の胸板に肘を叩き込んだ。
鈍い音と共に、相手が壁に叩きつけられる。
「ニコラスさん、気をつけて!まだ上に…!」
トリアの警告が路地に響き渡る。
路地の上からも黒づくめの刺客たちが飛び降りてきた。その数はさらに5人以上。
明らかに周到に準備された襲撃だった。
「トリア、壁際に!」
叫びながら、ニコラスは新たな敵陣の中心に飛び込んでいく。
彼の動きは無駄がなかった。最短距離で相手の懐に入り、的確な攻撃で一人、また一人と確実に敵を仕留めていく。
ニコラスの戦闘スタイルは、裏社会で培った戦闘経験と、日々積み重ねた訓練が融合したものだった。
4人目の敵を片付けた時、彼の視界の端に異変が映った。
キャシディが、まるで別人のように動いていた。
その所作は長年の訓練で磨き上げられた格闘家そのもので、黒衣の男たちの攻撃を予測したかのように躱していく。
「まさか…」
ニコラスの驚きの声が漏れる。
キャシディの動きは流れるように美しく、それでいて致命的な正確さを持っていた。
彼女は瞬く間に3人の刺客を無力化し、さらにリーダー格の男の死角に回り込んでいた。
その手には、どこから取り出したのか細身のナイフが握られている。
キャシディの刃先が男の喉元に触れる寸前で止まった。
「戻って伝えなさい。こちらはあなたたちにもう用はないと」
その声は冷たく、普段の温かみは微塵もなかった。
リーダー格の男は一瞬だけ体を強張らせ、それから小さく頷いた。
「…撤収」
残りの部下たちも即座に姿を消し、路地には再び静けさが戻った。
キャシディはナイフを素早く仕舞い、何事もなかったかのように振り返った。
「大丈夫。きっと彼らはもう来ないわ」
柔らかい笑顔を浮かべながら、キャシディはそう言った。
3. 暗殺者の過去
ニコラスの目は鋭くキャシディに向けられていた。
二人が対峙する裏路地には静けさが戻っていたが、ニコラスの心には嵐が巻き起こっていた。
「どういうことだ、あいつらは誰だ、そしてあんたは何者だ」
ニコラスは鋭く詰問する。
彼の瞳が捉えるのは、ただの孤児院の母などではなかった。
トリアも困惑しながらも真剣な目を向ける。
「キャシディさん、教えてください。何が起こっているの?」
キャシディは二人の視線に晒され、ため息をついた。
その表情には微かに悔恨が漂っている。
「できればトリアちゃんには知られたくなかったわ。私が迂闊だったせいね」
彼女の声はいつも通り優しかったが、そこには諦念が混じっていた。
しばらくの沈黙の後、キャシディはゆっくりと自らの過去を語り始めた。
「私は昔、魔術師教会エニグマの暗殺者だったの。教会の命令で、幾人もの教会の敵を葬ってきたわ」
トリアはショックを隠せない様子で息を呑んだ。
キャシディがそんな過去を持っているとは想像もしていなかった。
「幼い頃、私は感情を失うように教育された。人を殺すことが任務の暗殺者に、感情なんて邪魔なだけだったわ」
キャシディの言葉は冷静で、まるで自分ではなく他人の話をしているかのようだった。
「訓練され、暗殺者に仕立て上げられた私は、教会の命令に従って動くただの操り人形だった」
ニコラスはその話を無表情で聞いていた。
「でもある日、私はマキシマスと出会った。彼は私に人の心を取り戻してくれたの」
キャシディの声は少し柔らかくなった。
「彼は私に人を愛すること、守ることの意味を教えてくれた。そして私は暗殺者の道を捨て、彼と一緒に生きることを選んだわ」
キャシディは遠くを見るように目を伏せ、そしてゆっくりと息をついた。
「暗殺者を引退するには、多くの犠牲が必要だった。彼とシルヴェスターがエニグマを説得してくれたおかげで、私はようやく足を洗うことができたの」
ニコラスは黙って彼女の話を聞いていたが、頭の中には数えきれないほどの疑問が浮かんでいた。
過去に彼女が暗殺者だったという事実、それを知っていたマキシマスとシルヴェスター、そしてなぜ今までその事実は隠されていたのか。
「トリアちゃんが孤児院に来たのは、私が暗殺の世界から完全に抜けた後のことよ」
キャシディは続ける。
「シルヴェスターがトリアちゃんを連れて教会から逃げてきた時、私はこの子を守ると決めた。母になると同時に、トリアちゃんの身辺警護も私の役目となったの」
ニコラスの眉が僅かに動いた。
「で、教会はお前を排除しようとしてたってことか」
キャシディは静かに頷く。
「そうね、教会は今でも私を裏切り者と見なしている。そしてDestrion計画が発覚した今、彼らは何としてでもトリアちゃんを捕まえて、対ABYSSの兵器にしようとしている。私が邪魔なのは明白だったわ」
「それであの集団はあんたを狙っていたのか」
ニコラスは腕を組み、目を細めた。
教会の目的はトリアであり、キャシディはその障害だった。
キャシディはニコラスに視線を向け、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「こんなことをお願いできる立場ではないのはわかっているわ。けれど、あなたもトリアちゃんを守ってくれないかしら?」
ニコラスはその問いに一瞬沈黙した。
彼にとって守るべき存在はロイだった。
自分の役割は前線に立ち、敵を倒すことだ。
「…いずれにしろ、今回の件はロイに報告する」
ニコラスはその場での回答を避け、冷静にそう言った。
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チームTRANSCENDAに戻った三人は、襲撃の件をすぐにロイに報告した。
ロイは無言で話を聞き、冷静に状況を分析する。
「トリアを守ることが最優先だな」
ロイは短くそう言うと、ニコラスに視線を向けた。
「ニコラス、トリアを守ってやれ」
その言葉に、ニコラスはわずかに間を置いてから短く頷く。
「それがロイの頼みなら」