気づけば半世紀以上生き-縁遠き父は旅だった

気づけば半世紀以上生きていた。
おぎゃあと生まれず即集中治療室、暑い最中エアコンもない田舎の病院、大変苦労したと聞いている。
幼少時には本人の目の前で「この子は20まで生きないねぇ」と断言された。(かも、が入っていたかまでは覚えてない)
が。ただいまなんと四捨五入して50である。なんてことだ。

わりと、生きるもんだねぇ。とつぶやいてしまった。
そりゃあ健常者よりはあちこちちょっとだけ、傍目にはわからない出鱈目なつくりの部分があるし、
生活していて不具合もちょっぴりある。年がら年中風邪ですか。と言われかねない症状もずっと付きまとう。
だがしかし走るはできなくても歩けるし。生活には車という足がある。
持病からくる頭痛はストレッチやツボ押しで何とかしたり、飲み物のペーハーに注意したり。
五感の一つがほぼほぼ失われつつ、もう一つもそのうち失いそうだが・・・まぁ見えてりゃなんとかなるよと呑気に暮らしている。

ずうっと音信不通だった父の代理の者から連絡がきた。
よみがえるのは暗い過去、というものは割と薄れたが、「何をいまさら」が先であった。
母は、我々子らはかの父のあまりにもなあれこれに長らく苦しんだ。
飲んだくれて帰宅からはじまり遊び回り家に帰らず。
年々ひどくなる経済的ネグレクトと同時にアルコール依存症も発症、痛風に成人病とオンパレード。
暴力はなかっただけいいが、とにかく重要なこともなにもかも口を開かないたちだった。
飲酒賭事借金のセットはもはや定番。所在不明にはじまり謎の借金取りまでメインでついてくる。
連絡用に買い与えたphsは、我々ではなく遊び仲間との長電話に費やす始末。安月給からべらぼうな通信料を払わねばならない事実にめまいがした。
待ち時間の多い仕事内容だからと暇つぶしの電子機器を与えれば、「壊れた・・・」と保守期限切れの端末を持って来る始末。
それは給料二か月分なんだが?と真顔になった。
国産、頑丈がうたい文句の電子機器をどう扱った?とも。
そうした中でも、我々子らが給料を家に入れつつなんとかやりくりしていたころ。
父は退職金を手にどこかに消えた。
ようするにこしらえた借金は、我々に払わせようという算段だ。
昔々そんなことを酒の席で年若い親戚に吹き込んでいたのを思い出した。
このままではいずれ、将来も潰される。
これ以上はもう無理と決め。全員、じきなくなるであろう、古びた家を出て行った。

たくわえなどわずかななか、なんとか手の届く戸建てを見つけ住み着き、そうしてようやっと母は父と久々に会ったその席で離婚届けを取り交わした。

万が一母に何かあっては困ると、その場に立ち会った自分は、ほんとうに久々に見た父を見て、ずいぶんとほそくなったな、と思った。
それはそうだヘビースモーカーに肝臓もやられ、痛風もありでもはや長くあるまい。

・・・そう思ったあの日から、姿を消し居所を消した父は。
連絡によれば、なんと20年は生きて、いまも生きていた。
正直、怒りや恨みごとよりも「呆れ」がきた。
内容は、生活を何らかのかたちで助けられないかの、打診。
福祉の特性とものごとの順序上外せない確認事項だということは知っているが、本当にくるんだな、と思った。
ただ、警察から来るんじゃないか、と思っていたので、本当に意外だった。
何をいまさら?捨てたのはそちらだ。
母も自分も親戚も。繰り返し繰り返し警告し改めるよう促したのになにひとつ、改めようとすることもなかった。
離婚するためにですら、我々よりもよく知っている知人を通してようやっと捕まえ。我々の貯金がないことも理由も全く知りたくないのだろう、聞きもしない父。
よくぞ今まで生き延びたな。
が、正直な感想だった。

きつい生活と精神的ひっ迫はあまり思い出せないが、なんとか表向きの平静を保っていたという記憶はある。
おそらく当時の友達たちは、付き合いの悪い友人と思っていただろうなぁと思う。

今は毎日食事をし、猫どもの世話をし・・・あれやこれやとどたばたはあれどとはいえ、じつに平和に、生きている。
だが、そこへこの連絡だ。
戦前のような絶縁ができたらいいのに。
そう思いつつも手紙をしたため、理由を簡潔に書き、離婚済みの母には連絡しないようくれぐれも念を押した。
竹を割ったどころか竹をへし折りそうな、私のぶんの体力を保持していそうな豪快な母ではあるが、あの苦難の年月はたいへんトラウマなのである。
父のことを一言も話せないと感じ長年封印していたくらいにはトラウマだ。
そもそも母は体が丈夫だからと無理をしがちで、介護状態にも数度陥っており、そのたび不屈の精神で復活しおおせているが。
そこへ父の金銭問題だの体が弱っただのと知ったら、折角戻った体力と精神は、一体どうなることか。
お断りで問題ないとわかり。行政の福祉のすばらしさに感謝しほっとし。
また、数年がたったころ
・・・今度はいよいよだと連絡がきた。
今回は相続の3か月期限も絡むからだろう、私と長子別々にだ。
また手紙を返し・・・・そうこうしているうち、電話で連絡がきた。
そうですか、としか反応できなかった。
もう、大変、申し訳ないが。行政にすべてをお願いすることとした。
日本のこういった制度は大変ありがたい。
戦争でなくなったりなんだりの、祖父母を思うと申し訳ない気があるが。
しかし自分自身、家族も、もう無理なのである。

かつて保有していた墓は、父名義であった。
手続きもできずででどうしようもなくなり、もうないだろう。
いろいろと片付けてお骨を一時でも家に置けるか?
-絶対に、否であった。
これから。相続放棄という面倒なものが一つのこっているが、すみやかに終わらせることとしよう。

自分たちが幼いころから、ウィスキーだの焼酎だのストレートで飲むような所業を繰り返していたのだから、当然の結末だ。
賭け事の良さは自分らには一生わからない。
タバコは・・・どんだけ吸っていたか覚えてもないが、副流煙はしこたま吸わされたことは、間違いない。昔はそんな時代だったともいうが。

おかげさまで二度と楽しく酒が飲めそうにない。
自分に限っては依存症になりようもなさそうともいう。
実際月に一度だけ、ちいさなビールをひとつ開けて、翌日体調不良で頭をかかえる始末なのだから。

このぽんこつな体が、あと何年生きられるかわからないが。
あっちへ行ったら親父殿の首根っこをつかまえて。
つぎは。もうちょい、ましに、生きろ。
さもないとまた、ろくでもない人生になるぞ。
と念押しをしたい。
とぼけた返事、よくわからん返事をしたならば、うんというまでぶんぶんと振り回してやろう。
きっとあちらでは振り回せると思うのだ。

現世のあれこれを脱ぎ捨てたあとなら、自分も話ができるだろう、たぶん。

・・・ここまで吐き出してはたと気づいた。

腕組みして待っているのは、若くして亡くなったという祖父母じゃないか?
祖父は戦艦?どうだったか・・・海の上で戦死なのは確かだ。
うん、ちょっとこれは・・・自分の出番はなさそうかもしれないな・・・


後日譚
相続放棄のためあちこち関係役所へ出向きまくった。
しかし昔と違い広域なんたら発行が可能となっており。生まれて死ぬまでの戸籍、除籍、取得しやすくなっており助かった。
古い戦中戦後の戸籍は、男衆がほとんど戦地にて全滅。
いまさらながらに今の平和がありがたいと思うも、いつまで続くかと思ったり。
そうそう。普段使わない用語だけにまごついたのだが、役所の方々はどこも親切に説明してくださった。ほんとうにありがたい・・・!
なお本籍と住民票が違う市区町村であった場合。
死去した時の所在地住所が番地まで明確に書いてあるもの・・・住民票(除票)または戸籍附票。どちらかが必要なので注意。
所轄の簡易裁判所は、死去したときの所在地できまる。





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