自閉的哲学

WISCをご存知だろうか。
WISCでは、全体的な認知能力を表す全検査IQと「言語理解」「知覚推理」「ワーキングメモリー」「処理速度」の4つの指標をそれぞれ数値化した結果が見られる。いわゆる知能検査である。成人に向けて展開されたものがWAIS-Ⅳ。

ここで重要になるのは、その知能指数の値よりも4つの指標の数値の差、つまり凹凸であり、これが激しい場合にASD含む発達障害の傾向が疑われる。まあ実際に検査を受けたことがある人は少ないのではないかと思う。自分のIQなんて把握していない場合がほとんどだろう。そもそも受けに行っている時点で何かしら問題を抱えている場合が多いためここではその数字については言及しない。

自分は小学6年生の頃にWISCを実際に受けたことがある。その結果と今の自分を照らし合わせて思うところがあるため記録として当時のエピソードや自分の発達傾向などを残そうと思う。



検査の流れ

まず病院の受付で問診票を渡される。身長、体重、年齢などの基本情報に加え、学校の成績やテストの点数などを書く欄があった。それを提出して、保護者と一緒に個室に呼ばれ医者と面談する。家族関係や悩みについてなどのカウンセリングが行われた。母親の目の前でお父さんは好きですかと聞かれたのを覚えている。その後で医者は私を追い出して母親に私の幼少期についてヒアリングを始めた。このままここにいていいですかねと言って途中までその場で本を読んでいたが、途中で気まずくなったのか医者に向こう行っててくれる?と言われたためである。

WISC自体は、やはり内容は子供向けというか、絵を描いたり、カウンセラーの言う数字を逆から言ったり、図形を手本通り組み立てるよう指示されたりした。これで何がわかるんだというような感じだった。検査の結果から言うと、一番高い言語理解と一番低いワーキングメモリで差が40近くあった。この検査自体で実際の発達障害の診断を下すことはできないため、より詳しい検査をするのが流れであるが、なぜかその日で通院が終わったためあやふやなままである。あくまで発達傾向にある当事者として、果たしてどう生き延びようか?ということを散々考えてきて今に至る。

この結果の数値の傾向から、私はADHDよりもASDの傾向が高く、自分でもそう感じるためそれについて書く。併発の可能性が最もあり得ると思うが、ADHDに関しては親しい人間に指摘されたのみで根拠がないため、言及しない。適切に療養されなかったこどもがどう大人になるのか、それなりにサンプルになるのではないかと期待。

子供自時代について

学校が嫌いなこどもだった。仮病を使ってしょっちゅう早退していた。だんだん本当に学校にいると体調を崩し家に帰ると回復するようになった。今村夏子著の「こちらあみ子」の主人公をイメージしてもらえるとわかりやすいかもしれない。いわゆる変な子だった。結構印象深く覚えているのは、激怒している先生の横で本を読み続けていた記憶だ。当時私の通っていた小学校では子供携帯の持ち込みに関し、毎年保護者からの承諾書を学校に提出する必要があったのだが、私はそれを失念したままランドセルに堂々と子供携帯をぶら下げており、それを見つけた担任が私のランドセルを振り回して怒っていた。(それもどうなん?)休み時間は私にとって読書タイムだったので、その時気に入っていた赤川次郎のセーラー服と機関銃に夢中になっており、隣の席の女の子に肩を叩かれるまで静まり返った教室にも担任の怒号にも気が付かなかった。これと似たエピソードで言えば水泳の授業を思い出す。私の地元では、夏に巨大なプールに子供達が集まり、30分間泳ぎ続けるという行事があった。その練習をしていた時のこと。やめ!の合図の笛がなってみんなが次々とプールから上がる中で一人だけずっと背泳ぎをしていた。これもまた、担任が顔に水をかけてくるまで気が付かなかった。なんというか自分の人生は常にこう言う感じだ。こどもとは仲良くなれず、大人にはよく怒られた。
そんなこんなで学校に行かなくなり、母親が医者にみせよう!となって私を連れて行ったのが検査に至った経緯である。


ディス•コミュニケーション

このような傾向をもつ人間について一番言われるのがコミュニケーション能力の欠如である。一般的にASD傾向の人間は人の気持ちがわからないとよく言われている。半分あっているし、半分間違っていると思う。
ASD傾向の人間とってコミュニケーション、つまり他者との感情の交換は神経衰弱をするのに似ていると思う。場にずらっと裏返しのカードが並べられ、ゲームが始まる。カードにはそれぞれ怒りや悲しみや喜びといった感情が記されている。ここで問題になるのは、相手側はゲームのルール、および伏せられてはいても用いられるカードの種類を全て把握しているが、こちら側はそうではないと言うことだ。どれがどれに対応するのか、いまいちわかっていない。しかも、怒りが悲しみとセットになったり、喜びが悲しみと対応したりする。全貌がわからないままゲームが進む。♠️のマークが7つあり、四隅に7と書いてあったらそれがスペードの7、というような認識の仕方をするように、泣いていて、話の内容が要領を得ず、取り乱している、つまり、相手は悲しい。というような感情の認識の仕方をしているこちらとしては、少しでも例外があるとめくったカードがなんなのかさっぱりわからなくなるのだ。激しい怒りや強い嫉妬など、感情が激しく一貫性があればわかるのだが、そうではない場合、今めくったカードと何が対応するのかわからないままゲームがひたすら進行していく。泣いていて、でもはっきりとした話し方をして、時々笑っている。このカードはなんだ?悲しみか、怒りか、喜びか…?わからないまま、そして年齢とともにどんどん置き去りになる。

この問題は根深い。最近、共感の仕方に種類があると言う話が話題だ。気持ちで共感するのか、状況から推察して適切な回答を導くことで共感を演出しているのか、という話。自分は圧倒的に後者であると思う。しかし、前に何かのノートで書いた気がするが、こういった模倣には限界がある。

大人になれるか?

私は12月で20歳になる。成人である。最近それなりに行き詰まりを感じている。もっと若い頃は情報を得るのに必死だった。何か希望になるような話が、眠った才能とか、なんかあるんじゃないかと。ある程度知識がつき、それなりに現実を知った今、なんとも言えない心地で毎日を過ごしている。発達傾向にある人間の平均寿命が30歳であるという情報に突き当たったあたりで調べるのをやめた。30過ぎてから人生が好転したというような話もちらほらあるが、そこまで生き延びることのできた人間には何かしらの能力があるという生存バイアスの話に帰結しそうで、これもまた希望ではない。コミュ力一強のこの時代で逆張り文学をやれるのは大学生の内だろう。その期間を引き延ばすこと(院試)なども考えたが、まあ無理だろう。そして最近、ちょっと本気で疲れてきた。何に?怒られることに。毎日無能だの馬鹿だの言われていると落ち込む。けどそれよりも、そう言うことを言わないでくれと言った時に言われた、でもそれがお前じゃんと言う言葉が今になってじわじわきている。そうなのだ。極論そう言うふうに生まれついてしまった私が悪いのだ。私が私だからダメなのだ。そのどうしようもなさに今まで向き合ってきたつもりだ、なんとかしようとしてきたつもりだ、でもはじめからちゃんとしている人間に敵うわけがない。全部辞めてしまいたいと思う。小学校の保健室で嫌な顔をされた時に、学校になかなか行けなくなった時にドライヤーの音がうるさいと言う理由で怒鳴られた時に、辞めておけばよかったのかもしれない。生き延びるのは難しい、ひょっとしたら生きていくより難しいのかもしれない。


君たちはどう生き延びるか

生き方を選べるようなフェーズにはない。いかに生き延びるかだ。というように考え方をシフトしてから、それでも結構気が楽になった。自分が常にどう転んでもおかしくないということは、他人の転び方を笑えないということである。それが結構心地いい。私は他人が自分に向ける視線には鈍感だが自分が他人に対して向ける視線を意識すると鬱々とした気分になる。咄嗟に思ったことって本心に限りなく近く、それは大抵薄汚いため、ああこんな感情を抱いてしまった…と思うとどんよりする。だけども同族嫌悪は自分を嫌うことに近いためストレスが少ない。自分が自分に思うこととして解釈したら別に悪口でも問題ないため快適である。
さて、生き延びるには。完璧な模倣もできず、我が道を突っ走れるような才もなく、他人を避けてテクストにだけ縋りつき、さて、どうしようか。30歳まで生きられるだろうか。それまで希望を持ち続けることができるのだろうか。
20歳になった後の10年間が冗談でなく山場だと思う。



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