雑談





詩について

私は散々詩について考え文章にしているが、詩そのものを書くことはあまりない。短歌に関しては思いついたら書き留めることがあるが、詩を書こうと思ったことも、書きたいと思ったこともない、記憶の限りでは。詩に関して、私はそれ自体というよりむしろその構造に興味がある。書かれる対象と書く対象の、客体と主体のアンビバレンツ、なきごとのメルトダウン、それでもピントをずらすことのない正確な筆致。詩は技術が問われると思う。詩の世界で馬鹿は泣けない

バンドマンと付き合うと歌詞にされる、というのはよく聞く話だが、もし実際に自分がバンドマンと付き合っていて歌詞にされたらそれはもう怒り狂うだろうなと思う。詩にすること、相手を微分して要素を取り出しその他を抽象化して捨象すること、この、暴力性。同じ理由で写真も思い出も嫌いだ。実在するものやことを抽象化してはいけない、エモくしてはいけない。見ろ、目の前の相手を、彼の老いを、前より減った瞳の中の熱量を、平坦になった声を、あまり、笑わなくなったことを。現実とは褪せ、澱み、いずれ失せるものだ。それにいちいち傷つくべきなのだ、私たちは。

現実の相手について詩にすることは禁忌ですらあると思う。私は相手を想う自分の感情にのみフォーカスを当てて書くことはあっても、相手そのものを描写することはどうも気持ちが悪くて苦手で、だから必然的に小説にも向いていない。結局創作は人に興味があって人が好きなやつが勝つという身も蓋もない言説は、裏返せばそういうSNS/消費/シェア慣れしたリアルの世界の強者達こそ、相手の「映える」部分をめざとくキャッチして切り取ることができるため、文学や芸術にセンスの観点で素質がある、という話だろうと思う。なんと、かなしい。

被傷性というのはどちらかといえば自閉的な感覚なのだろうと思う。世界に対する感度の高さは閉じた心より得られる。センシティブであることはしかしながら、その眼差しの正確さ、または広義の意味での正しさと全くもってイコールではない。歪んだやつは歪んだ世界を歪んだまま描写するし、それをリアリズムだと勘違いして、お前に見えている現実はみなに等しく現実ではないのにそのギャップを見つめるだけの勇気も根性もないからいつまでも自己中心的で悲観的な独りよがりの自分の世界に閉じこもり、誰もわかってくれないなんてぼやく。おまえの小説に価値がないのは、おまえの文章が面白くないのは、おまえの写真が下手くそなのは、おまえがつまらなくて生きるのが下手でみすぼらしいからなのに、見る目がないだなんて他人を責める。人の気持ちがわからないのに、人にしてあげたいことなんて何一つ思い浮かばないくせに、おまえはいつもおまえがどれだけ悲しくて辛いかを訴え続ける。おまえはおまえのことにしか興味がないのに、おまえ自身のことは嫌いだから手入れのされていない雑草だらけのおまえの世界には誰も寄りつかない。文学はおまえみたいなやつのものじゃない。あれはむしろバレエや絵画や音楽と同じでコストがかかるし、セルフケアは当然、もっといえば生まれついてケアされ続けてきた上等な人間のためのものだ。生きるセンスのないやつに、いいものがかけるわけないでしょう‼️

いつでも大胆なやつに分があるのがこの資本主義。詩の世界でさえも。負け犬はなきごとすら言えない。四方の塞がったその部屋からは遠吠えすら届かないだろう。


プチ嫌だったこと

最近嘘をついた。
恋人はジャンクフードや香辛料の効いた身体に悪い食べ物が好きでよくそれらを口にし、そのあと決まって体調を崩す。そのため、私は「もし俺が今後それらを食べそうになったら止めてくれ」と頼まれている。私は基本的に、他人の飲食や飲酒、喫煙などの生活習慣に関心がなく、そんなの好きにしたらいいと思うし、やめたいならやめればいいというスタンスだが、止めろと頼まれれば止める。私はその頼み事を、「俺が自分の健康に悪影響が出ることをしそうになっていたら止めてくれ」ということだと解釈し、例によって、彼がほとんど割っていないほぼロックのウィスキーの三杯目を飲もうとしていたつい先日、「やめた方がいい」と止めた。彼は私に対してした頼み事を覚えていないのか、しばし駄々を捏ね、最終的に、「まあ、お前がそういうなら」と言って飲むのをやめた。私はこの、結果的に自分が口うるさい恋人になってしまったことに対してなんだか釈然としない思いを抱えている。だって私自身、彼の飲酒に関して1ミリも、なんの感情もないのだ。

自身の恋人、または親しい友人の、ギャンブルや浪費や飲酒といった広い生活習慣に口を出すことはかなり一般的に受け入れられている印象がある。私は昔からそれがよくわからない。根っこを辿ると、人を心配するという感情そのものにあまりピンときていない。これは多分、私が私自身に対し、私の体は自分の所有物でありそれに何をしようが自由という歪んだ所有欲を持っているせいだと思う。食べたいものを食べ、眠りたいだけ眠り、足が棒になるまで歩き続ける。精神が肉体の奴隷なのか、肉体が精神の奴隷なのか、いまいちわからない。ただ、どちらかが先立つ欲望を前に、「健康」や「未来」といった「本来良い状態であるべき(とされる)もの」がワンクッションの役割を果たすことがない。それらを害されない状態で保つことは私の義務ではないと思うし、同様に他人に負わせる義務でもないと思う。自分にも他人にもネグレクト的なのかもしれない。というかあまりにも快楽主義・道楽主義なのか。「これしたら楽しい」という誘惑の前に、健康や未来はあまりに無力で矮小すぎる。

恋人はむしろ反対で、私の喫煙を止めた過去がある。そしてその、自分が止めたという事実が、私が喫煙をやめるにあたって十分な理由たり得ると疑わない。皮肉を言いたい訳でも批判をしたい訳でもなく、ただ純粋に、極論を言えば私が私の意思で私をどうしようが、私の問題でしかないのに、と思ってしまう。それが他人に及ぼす影響なんて考えたことがない。

恋人は大人なんだろう。楽しい以上に大切なことをいくつも知っている。そしてそれらについて悩んだり立ち行かなくなったりしている。私はガキなので難しいことはわからない。


ギャンブル

私の家は祖父も父親もギャンブラーで、パチンコ競馬競艇なんでもありだ。祖父はまだ若い頃にタバコの吸いすぎで死んでしまったが、なかなかに変わった人だったと思う。私が幼稚園生の頃だったか、私の誕生日会を家族でやったことがあった。その時、メインのケーキがいつまで経っても卓上に現れず、私が半べそになっていたところ、祖父がおもむろにこたつの布団の中に手を突っ込んだかと思えば、そこから半分崩れかかったいちごのショートケーキが出てきて、ハッピーバースデーの歌と共にテーブルに乗せられた、ということがあった。私の誕生日は十二月で、つまりこたつはしっかりと稼働中、家族みんなが足を突っ込んでいた。子供ながらに、なんて嬉しくないサプライズだと思ったことを覚えている。
そんな祖父の息子である私の父は、新年に母方の実家で親戚一同集まった際、「俺はパチンコ行くんで‼️」と言って早々出掛けていくような人間だが(なぜそれがまかり通るのか疑問)ちゃんと働いて私の学費を払ってくれている。高校生の頃協調性がないという理由でバイトに落ちたりしていたらしい。たまにパチンコで当てた景品を私と弟に配ってくれ、冷蔵庫を開けた時に手のひらサイズのQooのオレンジジュースがあった日には彼の負けを悟った。小さい頃はよく一緒に競艇場に行った記憶がある。この間恋人と行ったが、試合開始前のサイレンやオレンジ色のマークシート、薄いプラスティックのペンなんかは懐かしいというより記憶に新しいというような感覚で不思議だった。競艇場にはちらほらカップルもいて、彼氏に無理やり連れてこられたであろう女の人がベンチでずっとスマホをいじっており、彼氏が振り向いた時だけスマホから顔を上げて笑顔になっていたのが機械的でよかった。私は結局一度も勝てず、Diorのリップを買うつもりだった五千円がものの30分で消えた。

恋人もまた、私の父や祖父ほどではないがギャンブルが好きで、成人してからはインターネットでオンライン競輪に賭けている。たくさん勝ったところもたくさん負けたところも見たことがない。私は一発逆転が大好物の生粋の弱者であるため、たまに3千円とかを倍率百近い大穴に代行で賭けてもらってしっかり損している。デジタルの損失には感触がなく、そもそもが人間に「欲望されること」のみで価値が生じているお金というものの異質さ、その実体をなくしシステムだけが残ったオンラインギャンブルはよくできていて、物質主義の向こう側、得も損もあるようでない感じ、感覚としては資本主義よりむしろ社会主義に近いものを感じる。心地よくダメになれる。

私のようなモラトリアム食い潰しチャンネルがギャンブルをあまり自主的に好んでやらず、アルバイトをしている恋人や家族を養っている父や祖父がギャンブルを好むのはなぜだろう。私は稼いだお金は多分溜め込むタイプだと思う。残高とか目に見えてじわじわ増えていくものが好き。減ると焦る。減りすぎると増やす気もなくなる。そもそもお金というものにそんなに惹かれない。贅沢にも興味がない。他人にお金を使うのは好きだ。プレゼントとか。喜んでくれるなら嬉しい。自分に対して喜ばせようとか全く思わない。





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