ことばについて
小説は開かれた孤独だと思う。紙に印刷されたテクストにずっと救われてきた。温度や手触りがなく究極まで削り取られた鉄骨のようなことばにだけ向き合うことができた。それは私を裁かないから。生身の人間から発されることばは怖い。生身の人間が怖い。彼らが内に持つ秤が怖い。その点、テクストは私をけして傷つけない。誰にも宛てられていないことばというものはだから平等にやさしい。水面に石を投げるように放たれることばというのは、しかしながらそれが誰の心にどんな波紋をえがこうがそのことばの預かり知るところではない。誰も例外ではない代わりに、誰も特定の対象ではない。それがよかった。
縋り付くようにページを捲り、その飢えのままことばを貪った。たいてい求めていたものがあったが、それは一度本を閉じてしまえば失われる。心にえがかれた波紋を、そのまま維持しておくことはできない。やがて凪が訪れ、私はずっと強い飢餓感を覚える。本が読めなくなるのに、そう時間はかからなかった。当たり前だ。私がしていたのは結局のところ偶像崇拝に過ぎず、一度虚像をそうと知ってしまったら、その瞬間からその信仰は瓦解する。そして本物を求めるようになる。血肉の通った魂のあることばを。そしてそれは生身の人間からしか得ることができない。
ことばは魂ではない、あくまで魂の乗り物に過ぎない。ずっと誤解していた。私が本当に欲しかったものは、ただ私だけに宛てられた手紙だった。そのことに気がつくのに、あまりに長すぎる月日が経ってしまった。
読むことができなくなって、今度は書くようになった。今度はことばにすることで救われようと思った。ノートもその一つだが、言語化のプロセスは消費を伴う。文字に起こすたびにひとつひとつ消えていくものの存在を確かに感じる、魂のよう
なものが、その光を小さくしていくのを感じる。
書くことは削ることだ、と言う。思うがまま書き出した膨大な量のテクストをひたすらに削り続けて作品をかたちづくることは創作のメジャーな手段である。しかしながら、私はこの点においてまた超えることのできない壁を見る。削り続けた結果、私の広げた原稿用紙には何も残らないのだ。一枚一枚ことばによる装飾を剥がして核を剥き出しにすることが創作であるにも関わらず、私の場合はその肝心の核が不在なのである。玉ねぎのようにすべて剥いた先には何もない。
取り去ったあとに残るのは荒野に立ち尽くす無様な客体の自分。
ここで失われるのは紛れもなく魂だと思う。私はいくらでも美しいことばを紡ぐことができる。愛について綴り、あなたについて述べ、忘れ難い夏について描写することができる。そして私がそうするたび、愛が死に、あなたが死に、夏が死ぬ。または不老不死になるとも言える。永遠に変わらない形を持ったまま、モチーフに成り下がった愛やあなたや夏が、がらんどうの瞳で、ただ詩の荒野に棄て置かれる。ことばにすることは剥製を作ることと似ていると思う。私は自分の文章の中で、どれだけの事象を殺しただろうか。私自身でさえも。生きるために書き、魂を使い果たし、それでも、身体は駆動し続ける。やめることのできない呼吸のために、私は書くことを放棄できない。
書くことは生産よりも消費に近い。生よりも死の匂いを色濃く残す。死にながら書くことは、生きるために書くことと、しかしながら、矛盾しない。そのことに立ち向かう術を見つけられるだろうか。
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