不在について

いない人、あなたがいない、いない詩、あなたがいない、いない人のために、いない詩のために、私を捧げる、いない世界に、いるものがいない、いない人の血のために、いない血の拒否のために、いない世界の拒否のために、私を捧げる、いない人は捨てられたから、いない、いない詩は捨てられたから、いない、捨てられた人のために、捨てられた詩のために、深い塹壕を掘る、深い重豪のほか、いるものがいない、いない瞼を閉じる、いない手を握る、見えるものがいない、触れるものがいない、あなたがいない世界に、生きるものがいない

稲川方人


不在について考えています。それは愛について考えることと等しい。

目の前の対象について想いを馳せること、「思い出す」以外の方法で人を想うことができない人を詩人とするのなら、エモいというカルチャーを主軸としたあらゆるインターネットネイティブ達は限りなく詩人に近い存在なのではないでしょうか。私たちは詩的感傷以外で人を好きになることができないという絶望的な事実に、みんながうっすら気づき始めたこの時代。

不在に勝る実在なんてないのではないかと思います。目の前の実体のあなたは真実過ぎてつまらない。本当であることになんて、なんの価値もないのかもしれない。私の中のあなたがよりあなたらしくなれるよう、その肉付けの手伝いとして実体のあなたはいる。だから私たちは会う必要がある。不在の補完のために。インスタの親しい友達のストーリーにこっそりアップした横顔だけが真実で、横で眠るあなたの寝息や、一緒に見たくだらないyoutubeの動画や、口論の末に割れた揃いのマグカップが嘘なのかもしれない。人を愛するとき、私たちは愛する人というモンタージュを愛する。あなたではなく。

私の煙草で枯れた声や、失敗した料理や、左右で違う靴下をあなたは愛しいと思わない。ディズニーランドの夜のパレードや、豪華なホテルビュッフェや、ネモフィラ畑の写真を、あなたは満足気に眺める。恋人のモンタージュを、あなたもまた愛する。私ではなく。

真実はどこにもない、私たちは自分自身すら、身につけた情報の断片から、窺い知ることしかできない。あなたがこの世界で真実めいているのは、あなたが私ではないからであるのと同時に、私になりうる可能性を秘めた唯一の存在だからです。

あなたの他者性を愛している。あなたの痕跡を愛している。あなたのことばを愛している。その全てにあなたがいない。

煙で汚れていくあなたの肺は知らないふりをして、灰皿に積まれた吸い殻を笑う。まだ膿む傷口を無視してあなたを海へ連れていく。不恰好なピースの左手を見ることなくアスファルトの上のあなたの影を写真に撮る。実体のあなたの不在と引き換えに私はスマホのデータでいつでもあなたの笑顔を見ることができる。

Z世代の恋は、私だけのあなたを失いながら、いいねとシェアで拡散していく。

エモいについて

エモいの正体がここにあるんだと思う。自分はエモいっていう言葉に忌避感があって、それはなぜかと言うと横にいるはずのあなたとの目線が合わないから。一緒にいて同じ景色を見ているのに、エモいって言う人はその瞬間を切り取って過去にしたときのことを考えている。既にそこにいない気がして寂しい。そうされる側もまた、あなたの不在を感じる。

キャプチャーされるその瞬間には、だから、あなたも私もいないことになる。私たちの個人的な事情はノイズとして、より美しい一枚絵のために排除される。それは関係性として正しいのかとずっと疑問がある。誠実さや切実さが全てではないことはわかっていて、わかっている上で、それでもあなたにいなくなってほしくないという祈りや縋りが大袈裟だと糾弾される風潮にはついていけない。人を想うことを軽率にできない。

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