ことばについて改
ことばとは何かを考えるとき、そのツールとしての利便性に着目するよりもむしろ、そもそもことばによって我々は何を成し得たいのか、また何を成し得てきたのか今一度見つめ直す必要がある。そして、ことばの本質とその役割については、実用性や有効性とは離れた観点から着目することで、より肉薄した結論が得られるだろう。
このノートでは、ことばによってなされた芸術である詩と、それを支える基本的な理念である「ロマン主義」に着目してことばとは何かを明らかにしたい。
山岡広昭氏が述べているこの「ロマン主義の原理」は、ことばとそれを介したコミュニケーションの本質と似通った点が多々ある。そして、上記に挙げた三名ともロマン主義の手法に則った詩の特徴として、非在のものへの憧憬とその回帰を目的とした営みであるという点を指摘している。完璧な詩が到来しないのはなぜなのか?それは、イデア的なモチーフは顕在化した時点で神聖さとともにその効力を失うからである。それと同じように、客観の世界で自分が認識しているもの/ことは、いかなる事象であっても、ことばにして捉えた時点でその客観性を失い、単なる主観的観測に姿を変えるということである。
つまり、「感覚はことばに先立つ」というある種諦念のような前提条件のもと、ことばによる世界の描写が続けられている。山岡広昭氏の言う「失われたもの」とその「回帰」はそれぞれ、「自分がとらえたままの姿の感覚、感情、認識」と「ことばによる再現」である。我々はコミュニケーションによって、再現性がなく決して共有できない主観的感覚の違いを、三木那由他氏が「会話を哲学する」(光文社新書)の中で指摘するように、ことばを用いた「前提条件の共有」で埋めようとしている。ことばは、自己の中にある尽きることのないイメージの再現の営み、コミュニケーションはその共有の試みである。メタファーは、言葉として認識したことで自己の一部となってしまったイメージを、いちど相手の世界にも共通の事象として存在するモチーフに例えることで客観の世界に落とし込み、その再現を試みる営みである。ことばがコミュニケーションを円滑にするためのツールであるというのは昨今よく耳にする結論であるが、それは本来、ことばのもつ自己と他者、主観と客観、自我と非我を隔てる境界をまたぐことのできる可能性に希望を持った主張であって、現在のような効率重視のコミュニケーションを賛辞する言葉ではない。
ことばが終わりのない再現の営みだとして、では、我々が真に理解しあうことは不可能なのだろうか?コミュニケーションが我々のうちに有するイメージを共有しあうための試みで、ことばがそれに形を与えて描画するための手法だとして、その再現性は、どれだけ主観性を排除し客観的な事実に寄っているのかに比例するのだろうか?しかしながら、多くの人の心をうつ(共感性の高い)詩や表現が、レアリズム的で、萩原朔太郎氏の指摘するような「認知至上主義」に基づいているかといえば、ここにロマン主義があるように、そうではない。ここでいう「再現性」「共感性」とは対象と自分が有する共通項の多さであって、真に迫る言葉とそのリアリティは、自分の経験や主観とどれだけ共鳴するかによる、という結論に落ち着く。その共通項の重要性を認知しているが故、相手とのギャップを埋めるためコンテクストを把握したり言語学習を行ったりするわけである。
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