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大坂冬の陣の戦い

1600年の関ヶ原の戦い以後1614年大坂冬の陣
そして翌年の1615年の夏の陣迄の15年間もの長い年月を家康が辛抱強く耐えた事
勿論何もしないでいたわけではない。

その間家康は1603年征夷大将軍になり、
武家諸法度、禁中並公家諸法度などなど、
外様大名、公家の締め付けをして、
徳川譜代並びに親藩を要所に置いて秀頼傘下の大名達、五奉行らの監視を強めて警戒し、
1605年に征夷大将軍を嫡男秀忠に譲り、
徳川幕府として征夷大将軍を秀忠世襲するという徳川の天下が続いて行くという事を天下に知らしめた。
そして
豊臣秀頼をどうするのか?
最終的には滅ぼす決心をする事になるが、
単に下剋上として、勢いで豊臣家を滅ぼしてしまっては、
朝廷、大名達特に豊臣恩顧の大名達に不信感を与えてしまう。なので秀頼が大坂城から出る事がやるべき最初の行動。
その中で家康に臣従し徳川幕府の一大名として存続して行く道を選んでいたとしても、
いづれは取り潰される。
豊臣恩顧の大名達薩摩の島津、毛利、上杉、などの力は侮り難い。
秀頼を担ぎ出されて結集したら大変な事になるので、家康は豊臣秀頼を滅ぼす事を決断することになり、20万の大軍を全国から動員し、豊臣秀頼の立て籠もる大坂城を包囲した。
豊臣方は10万を超える牢人とそれらを率いる豊臣大名の力で、
引き分けに終わった。
講和することになった。
こうして冬の陣は徳川方の有利な条件で終了することになった。
しかもこの頃は全国の大名は徳川幕府の体制下に組み込まれて、徳川に従うことで領地を安堵される様になっていた。
要は徳川家康が主君として君臨する形になっていた。
豊臣秀頼が頑張る事が悲劇を生む。


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