ep70 十津川村でお墓探し(堀助八郎氏の生家跡)
十津川村の山々。冬季は多くの場所が積雪し、アプローチする車道が通行止めとなる箇所が多くなります。
村境トレイルの話題から少々離れる事になりますが、暖かくなった折り、残りの村境探索を続けたいと思います。
村境トレイルを探索し始めて1年強となりますが、地元の人や興味のある方々より多くの情報を頂き、十津川村の歴史などにも興味が湧きました。
ただ、トレイルをつなげるのみならず、自ら足を運んで見た村の史跡等も書き残し、少しでも魅力が伝われば幸いです。
今回は以下の人物に纏わる探索に行って来た報告をしたいと思います。
堀助八郎氏について
十津川村の偉人を纏めた『十津川人物史』の8番目に紹介されている人です。
https://www.totsukawa-nara.ed.jp/bridge/person/person1-10/
今から300年ほど前、享保年間、徳川吉宗の時代の人物です。
人物史に書かれている通り、流行病により7人の家族をなくし、たった1人だけ生残った彼は、村を出る決意をします。その際、広大な山の資産をお寺に寄付しました。
そのお寺はかつて、筆者の実家裏にありましたが、廃仏毀釈により、お寺がなくなってからは領地を各字(地域)で分け合い、地元の人々は多くの恩恵を受けたといいます。
確かに十津川温泉の出づる場所辺りも寄贈された場所との事で、以後観光地として発展した経緯もあります。
お寺の痕跡は現在、筆者の実家近くに寺の門のみ残ります。また地域の神社の辺りに彼を称える石碑が建てられています。
西蔭地へ
先日、彼が残した7人、家族のお墓(七人塚)が西蔭地(ニシノオオジ)と言う場所に残っていると聞き、ご近所の方(Oさん)とお墓探しに行ってきました。下出谷と言うところにあるご老人(Iさん)の方が七人塚を見たことがあるということで、当日実際に話を伺いました。
「七人塚を見たことがある。西蔭地にある地蔵さんからまっすぐ降りていったら根際やわ」
Iさんはその朝、ご夫婦で畑作業をされておりました。奥さんが大きな声で斜面下の旦那さんを呼ぶと四つ這いでゆっくりと這い上がってこられました。猟師で山を走り回っていたであろう方ですが、ご高齢のため足が弱っているようでした。
その場で大まかな場所を聞き、かつてお墓があった所に続く道について、分かりやすく丁寧に説明をしていただきました。七人塚に続く道ですが、今は薮になってほとんど見えないであろうとの事でした。
この方が山に行っていた頃見た。ということでしょうから、お墓はごく最近確認されているのです。
下出谷から西蔭地の峠までは約20分ほど。そこから薮になったであろう下り坂まではほんの数十メートルとの事。期待を持って出発しました。
西蔭地は旧竜神街道の東端にあたり、西より比較的緩やかに続く街道からの下り込みの場所となります。旧龍神街道は、龍神と十津川村平谷(十津川温泉)を結ぶ重要な道でした。小辺路や西熊野街道とも連結される場所に近く多くの方が行き来した様です。元々はリヤカーやバイクが通れるほど道幅が広く整備されておりました。西には小学校があって、ピアノを担ぎ上げて運んだといいます。
現在は所々がけ崩れが起こり、狭い場所もあります。実際歩いてみると、広く残った道は平坦で、非常に良い道であったと想像できます。
さて、西蔭地の峠に到着すると、そこは四ツ辻になっており、安全祈願の為か、地蔵が祠の中で寂しく佇んでいます。そこから東側に少し下がったところ(およそ50メートル)に、左斜面下側にかつて道であっただろう痕跡が残ります。しばらく並走した後、その道は、一気に山の斜面を谷側へ下っていくことが確認できました。もともと多くの方が通っていたのでしょう、地面が窪んで九十九折りに下方へ続いていました。
そこから100メートルほど下ったところでしょうか。地図上の等高線が少々緩くなる場所を目指してみました。ここはIさんの言った場所とおおよそ一致する場所だと思われます。
周辺は人工林ですが、目的地に行ってみると石垣が確認できました。四段位に石垣が尾根に組まれており、家屋の屋敷後であったと思われる場所が見つかりました。
話によると、ここは私が小学生時代に校長だった先生の生家の辺りではないかと言うことでした。周辺を少し探してみましたが、残念ながら目立つような墓跡はありませんでした。
同行の方は上部を探していたので、あまり遠く離れるとダメだと思い、ある程度見回した後、斜面を登って合流しました。もう少し丹念に探しても良かったかも知れません。
今回は墓石を発見出来ませんでしたが、屋敷跡が見つかっただけでも大きな収穫でした。この場所は串崎集落から西蔭地まで登って来る途中に位置します。
屋敷跡は杉で覆われ、石垣のみ残っていましたが、次回探索にて発見出来れば幸いです。
今回歩いたルート👇