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ep29 果無山脈縦走路の村境②

意外と短い果無山脈村境の稜線

 前回の続きとなりますが、果無山脈縦走路は25キロ程の距離があります。縦走路は山脈の稜線上にありますが、村境界と一致する場所としない場所があります。
(イメージ画像は玉置山方面から果無山脈を撮影)

 意外だったのが果無峠が村境で無い事です。村境は七色集落を越えて八木尾に出る川に沿って北上します。
果無山脈縦走路で合流するのはブナの平です(図1)
そこから冷水山手前までの約6.4Km。その後一旦南に逸れて千丈山から安堵山付近で合流します。そこから和田の森までの約2.3Km(図2)
縦走路25Kmの内、8.7Kmが村境の稜線となります。縦走路の約3分の1が村境と言うこととなります。

図(1)
図(2)

 ちなみに果無山脈縦走路はかつて和歌山県で開催された黒潮国体の山岳競技コースとして利用された事があるそうです。1971年10月開催。

小松辿(コマツダワ)と言う場所

 県道753号沿いに小壁と言う集落があります。小壁からは眼下の上湯川を挟んで果無山脈の稜線がよく見えます。筑前タワと呼ばれるタワからは小壁集落が良く見えます。対岸へは吊り橋が架けられており、尾根を登って行くことが出来ます。その途中に小松ダワがあります。

小壁より

 “タワ”とは“たわむ”と言った表現の語源で、馬の背中のように少し凹んだ場所を指します。こう言う所は緩やかな場所なので私はタワが大好きです。おそらく小壁集落から果無山脈への途中に緩やかなタワがあるのでしょう。

今も痕跡は残っていると思われる小松ダワ

 小松ダワにはかつて一軒の家がありました。私がみている患者さんの父親は小松ダワ出身だったようです。実際にその方は住んでいた訳ではなかったのですが、子供の頃ブナの平へ遠足に出かけた時、庭の前を通ったと仰っていました。家はもう無くなっているかも知れません。

苦労したであろう通学

 この地区には出谷小学校・中学校がありました。山の天辺にあった学校です。小壁集落からも裏の山をかなり登って行く必要がありました。小松ダワから学校へ通うには一旦出谷川に下りて、吊り橋を渡り、小壁集落から迫野を登って行く必要があったと思います。

小松ダワ(推定)から出谷小学校への通学路


 小学校から中学校卒業までこの道を通ったと考えると驚きです。大袈裟な話であると思いますが、冬場は日が短いので、学校に着いた頃には日が暮れかけていたと言う話も聞きます。昭和初期の時代は草鞋を履いて通ったと言います。小松ダワの人も大変だったと思いますが、この辺りの高齢者の話は驚かされる事も多くあります。また改めて記載できればと思います。

※追記
この通学路は十津川村史にも掲載されています。本を見ていて偶然同じルートが描かれていて驚きました。
とにかくこの通学路は大変だったと思います。
一度歩いてみたいものです。

おさんトガ

 十津川村の昔話です。“トガ“は栂(ツガ)の木。上湯川の竹谷と言うところにおさんと言う女性が居ました。ある時、フドと言うヤマイモを掘りに鍬を担いで山に入ったおさんは巨大なイモを見つけ、掘り起こして持って帰り食べました。
その夜から山の奥から「フド返せ、フド返せ!」と聞こえてくるのです。

 既にフドを食べてしまったおさんは、神様のフドを食ってしまったと恐怖に打ちひしがれるのでした。
それ以来正気を無くしたおさんでしたが、ある雷雨の夜「そら来た来た!!!来た来た!!」と闇の夜に飛び出して行方知らずになりました。いわゆる錯乱状態だったのでしょうか?

 それから集落総出でおさんを探すも見つかりませんでしたが、暫くして果無山の大平と言う場所の大きなトガの木におさんの着物が引っ掛かっていたそうです。
その後、おさんと一緒暮らしていた女中が亡くなる前に話した事が以下の通りです。
「おさんの下半身は蛇だった。出て行く前に上湯川にある滝の主になると言った。」
おさんは女中に対して「これを人に話したら3日のうちに連れに来るぞ」と脅しました。

 地元の高齢者話を聞くと、おさんトガはあったと言います。「俺が見に行った時には根っこだけになってた」と聞きました。何とも奇妙な話ですが、ただ、イモを掘っただけなのに、この話は全く理不尽でハッピーエンドになりません。

 私が思うに、子供達にこの話を聞かせ“危険な場所に行ってはならん”と言う一種の脅しとして語り繋げてた事ではなかろうか。そう考えると辻褄が合う様な気がします。

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