唯物論化した「無我」と「空」 法話『空と阿羅漢』より考える

東京ドームで1993年に大川隆法先生は 
空と阿羅漢という説法をされました。

仏教系の大学においても 無我の教えが無霊魂説になってしまい、あの世の存在を信じない方々が僧侶となっているケースもあるようです。
もともと死後の世界を信じて信仰心の篤かった人は別として

 死んだらとうなるのかなぁと漠然と感じていた人や迷っている人が 葬儀や法事で あの世を信じない僧侶に読経されても 成仏できないようです。

本来は 葬儀や法要は死を迎えた人をあの世へと無事に送り届けるために 引導を渡すためにあるものだと思います。

引導を渡すとは 

葬式に際し、導師の僧が死者がさとりを開くよう説ききかせる
。 転じて、相手に教えさとすような態度で言う。 また、縁を切ること、相手の命がまもなくなくなることを宣告することなどにいう。

ドンカンオさんが コメント欄で教えてくださったので 今仏教系の大学でどのように「無我」が教えられているのかご指摘のホームページを 見に行きました。


仏教の大学教授がこのように考えて指導されているとなると その指導を受けた学生や後に続く者たちは 皆がそう考えてしまいますね。

しかし、 この無我の考え方は 釈迦の教えから微妙に離れて 最終的に、正反対の方向に仏の教えを変えてしまったのでないかと思いました。


空と阿羅漢という大川隆法総裁先生の説法のなかで 無我の教えが なぜ後世 無霊魂説に流れていってしまっのかが 説かれています。
この法話は 信仰告白の時代 第5章に収録されています。

そのなかから 関連した箇所を読んでみます。
少し長いですが お付き合いいただければ幸いです。

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無我の思想

人間は、肉体を持って生きている以上、
この肉体から現れてくる
「眼 ・耳 ・鼻・ 舌 ・身・意」という六根
六つの感覚器官による作用に惑わされてしまうのだ。
眼で見たもので、
耳で聞いたもので、
鼻で嗅いだもので、
舌で感じたもので、
手で触れたりして皮膚で感じたもので、
そして、
頭脳で「こうだ」と思ったものによって、 
さまざまなる判断をする。
いろいろな出来事を、いろいろな人を、
その感覚器官を通じて、さまざまに判断する
そうして生きていくなかでない
苦しみが生まれてくる。

その苦しみとは、 いったい何か。
それは、肉体に基づくも肉体から発する、
六根から現れてくる、
「渇愛」(かつあい)とでもいうべきものである。
喉の渇きのごとく、
あなたがたが、欲しくて欲しくてしかたがないと思う、
その渇愛、タンハー(tanha)が、
実は、あなたがたの苦しみの因なのだ。
求めても求めても満たされない気持ち、
それを苦しみという。

その苦しみを断つためには、
苦しみの根っこを探さねばならない。
苦しみの根っことは、いったい何か。
「六根煩悩」(ろっこんぼんのう)ー六根による悪しき精神作用は、
いったい、いかなるところから生まれてくるのか。
それはあなたがたが最も当然だと思い、
当たり前だと思っている、
「自分」という視点、見方、考え方から、
実は始まっているのだ。

それぞれの人間が、
まず、自分のことを考える。
自分の要求を考える。
それを満たしたいと思う。
それぞれの人間が、それぞれに、
肉体に基づく自己意識から、
求め、求め、求め、
そして満たされない苦しみを味わう。
そう、苦しみの根源は、まさしく、
その己なるもの、自分なるもの、
自我なるものから、
発生しているのだ。……
ー中略ー
今から2600年の昔に、
釈迦(釈尊)が人々に教えた「無我」の思想とは、
その執われの自己を放ち去ることであったのだ。

あなたがたは、自分をかわいいと思う。
そのかわいいと思う自分が、
自分自身に縛られることによって、
肉体的なる自己意識に縛られることによって、
残念なことに、その正反対に、
自分自身を苦しめ、
不幸のどん底に落とすことになっている。

そうであるならば、
あなたがたは、その思いを捨ててはどうか。
「自分が自分が」「私が私が」「俺が俺が」と思うその心、
それは、あなたがたを、
ほんとうに幸福にする心であるのか、思いであるのか。
逆に、あなたがたは、
決して満たされることのない世界へと
行ってしまうことになるのではないか。
さすれば、あなたがたは、

自分自身を真に愛するためにも、
「無我」ということを心に留めなさい。

我なるものは、実は無いのである。
そう思いなさい。
ーそう釈迦は教えたのだ。
あなたがたが自分自身だと思っているのは、
実は、先ほどから述べているように、
眼の感覚、耳の感覚、鼻の感覚、舌の感覚、手の感覚など、
神経作用ー肉体に基づくさまざまな反応
によって、
幸・不幸、快・不快を感じているだけなのである。
それをいったん断ち切りなさい。
それが無我の思想であったのだ。


唯物論化した「無我」と「空」


釈迦在世の当時には、
この「無我」の思想と、「空」の思想というものは、
ほとんど同義に使われていた。
「無我即空」「空即無我」
ー無我と空は、
同じような使い方をされていたのである。

ところが、釈迦没後百年、
仏教教団は大きく二つに分かれた。
これが「根本分裂」といわれるものである。
それによって
「上座部」(じょうざぶ)という宗派と、
「大衆部」(だいしゅぶ)という宗派に分かれた。
上座部というのは、
釈迦時代の戒律を厳格に守って生きていこう、とする考えを持った団体であり、
大衆部というのは、
非常に進歩的で自由な気風を持った団体である。
この二派に分かれ、
さらに、この二派が十八に分かれ、
さらにまた二十に分かれて、分裂していった。
こうした、分裂した仏教教団の時代を、「小乗の時代」という。
小さな乗り物、小さな執われの段階にある仏教教団である。

その時代に、先ほど私が語った、
釈迦の「無我」の思想が、
なんと、
まったく違った意味にとられていった。
「我」なるものを、
インドの言葉ではアートマンという。
「アートマンなるものはないーー
アナートマン(アートマンの否定形?)が、釈尊の説いた説であるならば、自我なるものはない」とされ、
インドの言葉において、アートマンというのは、
「自我」という意味と同時に
「魂」という意味を持っているので、
釈迦没後、二、三百年たった、
その小乗の時代に、
釈迦の無我の思想が、なんと、
「死ねば、そののちに残るものなど何もない」という思想に、
すり替えられていったのだ。
そして、ここに無霊魂説というものが出てくる。
「魂なるものはない。
人間は、死んだら、それで終わりだ。
そういう悟りを釈尊は教えたのだ」
という思想が出てきた。

これは大変なことである。
今、あなたがたは、
そのような考え方をしている人にならば、
日本国中、
どこでも会うことが出来るであろう。
「人間は死ねば終わりである。
焼かれて煙となり灰となれば、
もう終わりである。
死後の世界はない。
魂などない」
ーーそのようなことを言っている人など、
日本中にはいくらでもいる。
しかし、それが悟りであろうか。
釈迦の開いた悟りとは、
そのような思想だったのであろうか。
今の日本人のほとんどが持てるような思想を
彼は悟ったのであろうか。
そんなはずはない。

そこで、紀元前後、
釈迦没後、五百年近い歳月が過ぎたころ
大乗仏教の運動が起きた。
小乗仏教のなかでは、
そのような形式的なものの考え方をして、
本来の悟りが失われ、
人びとを救う力が失われたので、
大乗運動が起こった。
その大乗の中心となったのが「空」の思想である。
先ほど言ったように、無我と空は、
釈迦在世中には、同じ意味を帯びた言葉であった。
しかしながら、小乗の時代に、
無我の教えが、まったくの唯物論に近い見解に流れていったので、
大乗の段階においては、
この無我思想を打ち砕くために、特に、無我思想を強調していた
「説一切有部(せついっさいうぶ)」という部派の考えを打ち砕くために、
空という思想を全面に出してきた。

この空の思想のなかには、非常に霊的なる意味があったのである。
ところが、現代の日本では、
大学の仏教学科、宗教学科では、
「無我の思想とは霊魂がないことである」と教えている。
「空の思想とは、死ねば何もかもなくなることである」と言っている。
「一切がなくなることだ」と教えている。
間違った無我思想と、まったく同じことになっている。
唯物論になってしまっている。
こんなところで教えている人、
そこで学んで僧侶をやっている人たち、
すべて仏教徒に非ず。
釈迦弟子に非ず、仏弟子に非ず。
あなたがたは考え違いをしている。
そんなことを悟りと言うはずがあろうか。
霊的なる世界を自覚することなくして、
悟りなるものはなかったのである。
空の思想とは、そのように、
霊的なるものの見方を、
その内に秘めていたものなのだ。

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釈尊の説かれた言葉の真意が

 字義だけに執われてしまい
学問的にのみ解釈してしまった
後世の弟子たちによって 
曲げられてしまった
ということだと思います。

この説法の最後に大川隆法総裁先生は
阿羅漢に至る法門を説かれています。

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空とは、虚無主義、ニヒリズムではない。
唯物論ではない。
何もかも無くなるという意味ではない。
また、この世の総てを肯定する思想でもない。
霊的なるものと物質的なるものとを、
調和させながら見ていく思想、
それが「空」である。
執われることなく、
流動的立場、「縁起」のなかに、すべては流れている。
「空」は即、「縁起」であり、
「縁起」はまた「空」であり、
「空」は「中道」である。
すべては「諸行無常」ーー変転変化のなかに
その縁起の法のなかに、
「空性」なるものを見いだすことができる。
そこに人生の真実がある。
諸行無常のなかで、
一切の執われから離れて生きること、
それが、阿羅漢の悟りに達したということなのである。
「空」は、
かくして阿羅漢に至る法門となり、
阿羅漢は、
かくして「空」なるものを示すことになるのだ。

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30年前の法話は  今読んでも
私には難しいものです。


私が 理解しえたのは

あの世があり
この世と あの世を輪廻転生を繰り返して
仏の境地に近づくために
さまざま教えを学びながら
さまざまな国で
さまざまな経験をしているのだ

ということだったと思います。

さりとて自分自身のこととしてとらえると

「 一切の執われから離れて生きる」
境地というのは まだまだ難しいのですよね😭
















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