政治哲学の原点 「自由の創設」を目指して (複数性のなかに自由は発生する)

幸福の科学大学シリーズ17巻目の書籍です。

こちらは2013年10月29日に 幸福の科学総合本部にて収録されています。

安部政権が成立して 約1年後の講話になるので その当時の情勢判断である部分もあるかもしれないのですが
その当時の時事問題を抑えながら、
全体を貫くものは 普遍的な政治思想になっています。


章ごとに 

順をおって 考えていくのが  正しいのかもしれませんが 私の関心が 強い部分のピックアップになってしまいました。

是非本書をお読みいただけたら、 思わぬ宝を見つけたと驚かれることもいらっしゃるのではないでしょうか。

あとがきにはこのようにあります。


 戦後日本の「左翼イコール自由主義、平和主義」的な単純な考え方は改めるべきである。粛清と、強制収容所と侵略主義的覇権主義が台頭してきたなら、その権威主義、侵略主義に対して、「自由の創設運動」を起こさねばならない。洗脳と集団催眠を多用するマスコミに対しては、ソクラテス的対話術を学んでいくべきだろう。

  本当の自由とは何か、本当の平等とは何であるか、真剣な建設的な議論をもって「批判の学」を構築していきたいと願うものである。この日本という国に、一陣の時代精神の風が吹き始めていることに早く気づいてほしい。

政治哲学の原点


本当の自由とは何か
本当の平等とは何であるか


難しい問題だと思います。人間の思いだけで、 多数決だけで 、この問い掛けの答えが導きだけるわけではないと思います。

第6章には次のようにあります。

民主主義の担い手は「考えることができる人」


私は「プルラリティ、複数性のなかに自由は発生する」というようなことなのです見ています。「複数の考えのなかから、自由が発生してきているのだ」ということを考えているのです。  

複数性のなかに自由は発生する

この言葉を 宗教家が語ることの意味を考えてみたいと思います。

この説法に先立つ2009年4月末に大川隆法総裁は 幸福実現党という政党を立ち上げました。

宗教が政党を持つと言ったとき
ともすれば ひとつの考え方で染め上げてしまって 他の考えを否定してしまい議論すら許されないことが あると一般には考えられています。

ところが、幸福実現党という政党を立ち上げた創設者 大川隆法総裁の思想のなかには そのような考えはないのです。

なぜでしょうか。

そして、その自由には、当然ながら、「そのなかから何を選び取り、何を行動し、結果として何を受けとるか」という違いが出てきます。この「自由のなかで、何を選び取り、いかなる結果に甘んじるか 」ということのなかに、「人間として要求される資質」が出てくるのではないかと思うのです。


 では、「どういう人間が必要であるか」ということですが、単に権威に流されるだけの人間、あるいは「長いものに巻かれろ」と考えるだけの人間ではいけません。
 

自由のなかで何を選び取り選び取り、いかなる結果に甘んじるか  ということのなかに人間として要求されるされる資質が出てくる。


私は ここに 仏教でいう縁起の理法が働くことを感じます。ロボットのように一定の条件の元で決まった一律の反応しかできない状況では、神仏の子としての 魂の成長は望めません。


権威に流されるだけの人間、あるいは「長いものに巻かれろ」と考えるだけの人間ではいけません。



ここ 3年ほどの コロナ禍が始まって ワクチン接種に関しても 私たち日本人は 多くの自由を失ってしまったと感じます。

複数の議論や 自らの考えでワクチンを打たないという選択は 職場によっては全く許されなくなってしまいました。

政府、有識者、ノーベル賞学者、 新聞、テレビといった権威(?)から発信されたものを
「考える」作業無しに 私たち国民は 受け入れてしまうことが多いのでしょう。


自粛警察などという人たちも現れて  権威に従い 権威に従わない人を 許さない行動に出ました。
地方では他府県ナンバーの車の新入を許さないというところもありました。

反対意見、異論を許さない社会ができていきました。


もちろん、時の政権が、特高(特別高等警察)や突撃隊など“暴力装置“とも言うべきものを持っているところに対しては、“敵わない“部分がないわけではないのですが、少くとも、民主主義の中心的な担い手になるべき人々は、やはり、「考える人」でなければならないと、私は思っているのです。「考える人」でなければなりません。
そして“Thinking Man“というか、造語になるかもしれませんけれども“Thinkable Man“です。「考えることができる人間」によって民主主義的な成果が紡ぎ出されていかなくてはならないと思います。


そういう 「Thinkable Man」あるいは「Thinkable Men」がいることによって、マスコミが多様な情報を提供することにも意味が出てくると思うのです。いろいろな考え方や情報が奔流のごとく出てきますが「考えることができる人間」が存在することによって、いろいろな情報や知識が意味を持つものになってきます。

ここ数年のマスコミ報道を見るかぎり 私たち日本人は 「考えることが、できない人間」として扱われているのだと思いました。
以下のような件に対して、マスコミは多様な情報を提供していませんでした。

アメリカの大統領選挙、 

コロナ発生やワクチン

ウクライナ ロシアの戦争、 

LGBTQの問題

特にワクチン問題に関しては 一律同様の情報発信しかしていません。(地方局、地方紙には例外的なものもありましたが。)


そうした「考えることができる人間」こそ、やはり、自由の主体であるべきだと思いますし、自由の主体たる人間が、一定の議論をして、正しい結論を導いていくことが大事なのではないかと思います。

「議会制民主主義の名で議会が決めれば、それでいて正しいか」といえば、必ずしもそうでないものもあります。
 日本でも党議拘束によって党が拘束することがありますが、共産主義圏で民主主義を名乗っている国の議会には、実際上、議員が反対できない議会、議会制のかたちを外国や国民に見せるためだけの議会がたくさんあります。

自民党のなかにも 本来 複数の考えがあったはずですが、党議拘束があると動けないものなのでしょうか。
選挙資金、公認などといった面で縛られてしまうのかもしれませんが、本来何のために政治家になったのかを考えるべきだと思います。

 これに対しては、「考えることができる人間」が「自由」ということの意味を解釈し、「正しい結論」に導いていかなくてはならないのではないかと思っています。

自由は自分を律することのできる個人に与えられるものです。

2022年11月の説法に「真実を貫く」このようにあります。

「自由を与えていい人」は「自分を律することができる人なのです。「自律心がある人」です。
自分を律することができない人間人は、「束縛」という言葉は悪いですけれども、ある程度の、外部からの規律を与えられやすいのです。
 これが度を過ぎるといわゆる専制国家と
同じようになってきて、もう、みんな愚民視されて、一律管理されて、ほとんど“ゴキブリ扱い“されるようなところまで行って終うわけです。
ある意味では、それは、「指導者だけが頭がよくて、あとはみんな考える力はない」と思われているのだから、知識人がもうちょっと頑張らないといけないところです。

真実を貫く

指導者たちに愚民視されるようなことのないように 私たちは自分を律し 考えることができる人になりたいものだと思います。





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