他人に対しては理解をし自分に対しては反省せよ

幸福の科学の三宝帰依した信者さんや 三宝帰依までは考えないけれども 学んでみようかということで入会された会員さんに 

仏説正心法語という 経文が授与されます。
朝晩に読誦が勧められますが

その中の一節にあるのが、

この

「他人に対しては理解をし」

「自分に対しては反省するせよ」


という教えです。

そのあとに

「自他は別個にあらず 一体なり
共に仏子の兄弟なり」

という教えが続きます。

で、

毎日 詠んでいたとしても

本当に 心に落とし込んで理解して自分のものとしているかといえば なかなか難しいものです。

この教えが 自分のものとなっていない為に ずいぶん失敗や思考錯誤があったような気がします。

宗教の教えに触れて それが

「正しい」「本物」だと確信すればするほど
熱心に 伝えたくなりますが…

ここに ひとつ 落とし穴がありますね。

それは 伝えたのに 相手の反応が素っ気ないものだったり、否定的なものだったりした場合に
「なぜ こんなに素晴らしい」教えなのに
わからないの❗️っていう裁きが入ってしまうことがあるのですね。

ここでは
他人に自分の信じているものを理解してもらいたいという 甘えがあり

他人に「素晴らしい教え」を理解させたいという傲慢さがあり

主 エル・カンターレが 信仰を持つものに求めているものと真逆な方向で 自分の心が動いているのです。

相手に対する理解とは 愛を与えることです。
理解したとは 愛したと同義であるとも聞いたことがあります。

現代人の間違いは 
「与える愛」ではなく「奪う愛」を愛だと勘違いしていることなのです。

自分の「信じる教え」を 相手に理解させたいというのも 奪う愛になっていないかの点検がいるのではないかと思いました。

相手の育った環境によっては 培われた価値観は異なります。

自分が感動したこの内容は
相手も感動するものだという思い込みは 相手を理解していないからです。

ある程度、大人同士の しかも 家族以外の他人ともなるとその配慮が働くのですが、それが我が子となると 子供に対しては 時にそれが 教義の押し付けになったりする。

子供が 幼いうちは、 圧倒的に親の立場が強く 価値観を強制しているとは思わず教育の一環だと考えているからです。

学校教育が始まると 学校のような公的教育機関には 宗教の姿はありません。
神仏の教えも 見当たらないのです。

大多数の家庭には いまや神棚も仏壇もありませんし、日曜日に 宗教のお話を聴きにお寺に通ったりの教会に行ったりする習慣もないのです。

子供たちにとっては 宗教を信じている 自分の家庭の方が 少数派であり おかしいと思ってしまうことも多いのです。

子供の置かれている 微妙な苦しい立場を 親は気づかないことも多い。子供は親を理解しているはずだと無意識に思い込んでいる。子供は「他人」ではないから、ある意味で親の方が甘えているのですね。

親子であっても、子供は親とは別の魂です。

共に この地上で魂を磨き会う仲間として生まれてきましたが、親とは魂は違うし、課題も違うのです。


本来は

 教えを先に学んだものが教えを体現するものになっていれば 

自ずと水が高いところから低いところに流れていくように、
掲げられた灯火が暗闇を照らしていくように 伝わっていくものもあるはずなのですね。

伝えるようとする者の自己変革ー
親自身の自己変革が まず求められていたのです。
それを忘れて 相手を変えようとしていた無明を 自分が反省すべきであったのです。

ただ どうしても 道が分かれてしまうこともあります。神仏の教えをどこまでも学びたいという魂と 唯物的な価値観でこの世の楽しみをどこまでも追求したいという魂では 求めるものが違い過ぎて 共に歩むことが出来なくなることもあります。


その哀しさというのは 信仰を持つ者には やはりあるのです。

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