「国を思い己の信ずるところに従って精一杯生きた」ー侍タイムスリッパーを見て
一つの台詞が 時代を象徴している
コメディだと思って観に行った
侍タイムスリッパー
この予告編を見れば 笑える映画だと思って見に行くだろう。
その1週間前に観に行ったアメリカ映画
シビル ウォー
このシビルウォーは 何度 途中で激情を出ようと思ったかわからない。
恐怖の連続だった。
だから、今度は 楽しい笑える映画を。
ということで 家族に勧められた
侍タイムスリッパーを見に行くことにしたのだった。
時代劇愛と 武士の精神
テレビで時代劇を見ることはほとんどない
新作が作られないのだ。
地方局では 半世紀地殻変動前に作られていた
時代劇の再放送が かかっている
が
新作の連続する時代劇は見なくなった。
時代劇は作られなくなったのだ
そんななか
時代劇の殺陣師のもとに弟子入りし
切られ役で身を立てていこうとする
高坂で新左衛門
彼にはそれしか生きる道がない
なぜならば 彼は 江戸末期から
タイムスリッパーした本物の侍だったから。
140年前の武士が現代の生活に
飛び込んだとき
日常の私たちの当たり前に
感激するシーン 驚くシーンは
おかしくて笑ってしまう。
斬られ役として稽古を受けているのに
何度やっても本気に成ってしまい
師匠を斬ってしまい
なんでやねん と師匠を呆れさせる。
ここでも 劇場のあちこちからの笑い声。
そう とても 笑える楽しい映画だ。
でも
その前に アメリカのシビルウォーを観ていたせいだろうか。
別の感慨が私を 揺り動かす。
これは 日本の精神の映画だ
これは 日本の 武士道の映画だ
そんな風に思った。
江戸から明治の移り変わりに
戦った長州と会津の両藩
敵として相対峙しながら
刀を 交える両雄。
共に 己の信ずる所に従いて
国を護ろうとする志は同じ。
だが その方向が違うのだ。
会津は 賊藩となり その後は
厳しい末路を辿る
新しい時代を作るために流された血
その命の重みを受け止めながら
新しい未来を切り開かんとする武士は
敵として散った命へ
成仏せよと 祈る。
これは私怨ではなく
憎しみでもなく
新しい時代を切り開くための
互いの信念のぶつかり合いなのだ
刀と刀を交える死闘には
相手への尊敬がある。
武士道の精神が時代劇に昇華されている
そんな風に 私には思われたのだ。
侍タイムスリッパーも
シビルウォーと同じ
内線の問題があると 私は思う。
だが 銃声が飛び交い 人々が簡単に
倒れていくシビルウォーの世界には
命を落としていくものへの痛みがない。
人は主義 思想の違いによって
簡単に命を奪われていく
モノ化した 扱いを受けていく。
胸糞悪い映画だった
夫は シビルウォーを観て言った。
それでも 観て良かったと。
そうだ 私もこのような世界観を持つ人たちが
存在することを知って良かったとは思った。
しかし、これは日本に入れてはならない。
この感覚を日本のものとしてはいけない。
侍タイムスリッパーは
私の日本人としての心を
癒してくれる映画だった。
日本の武士の精神は
敵として戦ったものを
リスペクトして讃える精神がある。
日露戦争を戦った乃木将軍が敵として戦ったロシアの将軍を丁重に遇し、
敗戦の将として裁かれる敵の将軍の助命を ロシア皇帝に願っている。
これは 日本精神の奥にある
武士道の精神だ。
先週観た シビルウォーは…
映画とはいえ
大統領選挙を控えて作られたシビルウォーには 心情を異にする者の死に対する哀悼の意が
戦う者同士のなかにない。
戦場カメラマンとして
駆け回った女性が
高齢のジャーナリストの
死のシーンを自分のカメラの映像から消してしまうシーンに 人としての心を感じさせるものが いくつか散りばめられているのだが、
若き女性カメラマンの 自己実現欲と
信条の異なるものを徹底的に
排除していこうとするものの
力こそが 正義だと言わんばかりの
世界が拡がって 心が殺伐と冷えてくる。
一見平和に見えた町並みの中にも 屋上に立つ狙撃犯が睨みを効かしておりここに真の自由や平和等等ないのだということを 暗に教えてくれる。
侍タイムスリッパーは
冷えきった心を温めてくれる映画だった。
日本の こんな映画が
もっと世に出てきてほしい。
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