信仰免役とワクチン

病が世界に拡がったとき 有効なワクチンを求める声は大きかったです。

世界でロックダウンが起きていたときに 祈りの場である教会は開けておくというようにとアメリカのトランプさんは 言っていたと聞きます。

宗教施設で 神に祈るよりも  人との接触を避けて 有効なワクチンが出るまで待つという
科学的思考を 重視する人の方が 日本でも多いと感じました。

幸福の科学の支部や精舎も開いていたのですが
本人は信者さんでも
家族が死んじゃさんでない人からは
批判的な声もいただくことがあったと
思います。

参拝される方も マスクなどもされていない方が多くて  信者であっても 2世会員の方からは
お叱りを受けることもありました。

信仰免役とワクチンのどちらを信じるかというときに ワクチンを信じる人の方が大半の世の中でしょう。

2020年にコロナウィルス撃退曲としてCDが出されたのです。

私は複数枚いただいて 親類や知人に渡しましたが 受け取ってくださった方あり 拒否された方ありでした。

我家でも しばらくは この曲を家でもかけていたのです。


2年経って 少し警戒心が 緩んでいた頃
冷房の効いた場所で 数時間 過ごした2日後に
発熱しました。

39度近い熱が2日ほど出て
 イベルメクチンを3回ほど飲み
1週間ほどで平熱にはもどり
 病院には行かずに治しました



喉にガラスがささったような痛みや
味覚障害がしばらくあったこと
  ひどい体の倦怠感が1ヶ月ほど続き
その後 禿げるのではないかと思うほど
脱毛が酷かったことなどを考えると
ただの風邪とは思えず やはりコロナ感染だったと思います。

前年に 3回目の手術をしていたことや 
春先に段差を踏み外して捻挫をして2ヶ月ほど動けなかったこと 
訪問診療を検討したいと思うほど体調が悪化していた時期に  冷房の効いた部屋で 羽織るもの無しに過ごしたことなど 油断が重なって
いたとは思います。

信仰免役があれば
罹患することは無いとは安易に思っていた
不明を 恥じましたが
同時に 複雑な気持ち。
信仰心が足りないのかなぁという思いは
心のなかに 残りました。

そんなとき がんで闘病中の信者さんのブログで やはりコロナに罹患したとき
他の信者さんから 我が家は全員かかりませんでしたよ。お大事にしてねという言葉を聞いて複雑な心境になったということが 書かれていました。

なんというのでしょうかね。
その時 私は、お大事に言った方の言葉に
おそらくブログも感じたのであろう
信仰者の 傲慢を感じてしまったのです。

確かに 信仰あるものは 守られるという
言葉はあります。

でも 、信仰薄きもの 信仰なきものに対して
神仏は だから 自業自得なのだと
突き放した目で見ているのだろうか

それは 信仰あると自負するものの
思い上がりではないかと 感じるのです。

仏は

法を説くは師にあり
法を弘めるは弟子にあり

と仰いました。

弘める弟子たちの心のなかに
神仏と同じ 愛の心が 宿っていなければ
教学を重ね 仏法真理の知識を伝えて
救おうとしても
伝わらないのではないのかと思えるのです。

同苦同悲 という言葉があります。

同じ苦しみを 同じように悲しむ心です。

以前 総裁先生が 支部巡錫をされて 信者の前で語られた言葉

私はいつも、

あなたがたと共にいます。

あなたがたが

病気で苦しんでいるときには
私も苦しんでいるのです。

あなたがたが一人で幸福に過ごせているときには、私の姿を見ることはできないでしょう。

しかし、あなたがたが不幸のなかにあって、ほんとうに困っているときには、私に祈ってください。

私のことを思ってください。

私は、必ず、あなたがたと共にいます

この言葉を 深く感じたのも 病で苦しむときだったのです。
それは 肉体を持つ大川隆法総裁先生ではなくて
主エル・カンターレの言葉として心のなかに響いて深く深く心のなかに響いた言葉でした。


信仰を持つ者も順風満帆で 行き渡ると 時に他の人々の苦しみに 気がつかずに 安易に いろいろなアドバイスをしてしまうことがあります。

今 世界中に拡がった疫病や 大雨洪水などの天変地異などは 神仏の心から人類が離れてしまったことに対して 悔い改めが迫られている時期なのだと思います。
ですが、
このような 話は 宗教を軽視してきた日本ではなかなか受け入れらず
以前には
東京都知事をされていた故 石原慎太郎 氏が、
震災に対して「天罰」発言をしたということで 非常にバッシングを受けました。

しかし、 聖書に親しんできた民族にとっては
旧約聖書の創世記にある ノアと洪水と方舟の物語は頭によぎると思うのです。                        

主は、地上に人の悪がはびこり、その心に計ることが常に悪に傾くのを見て、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。主は言われた、「私は、創造した人を地の面から消し去る。人をはじめとして、家畜、這うもの、空の鳥までも。私はこれらを造ったことを悔やむ。」

旧約聖書 創世記6ー5


信仰あるということが 何もかも世の中の苦難や困難に合わずに御利益だけが続くといことでは無いのだと悟ったこと、より深く神と人間の関係に思いを馳せる契機となったことを病気を通じて私は感じました。

人類にとっての 疫病や天変地異、戦争なども
神がいるなら 何故このような事が起きるのかと思うことはあるとは思う。

あるとは思うけれども 

それでも そこから
この世ですべてが 完結するのではなく
肉体の生命を越えて
永遠の生命を持つものとして 
大いなる存在に気がつく契機ともなることを
教えられているよいにも 思えてなりません。

私たちと共に 悲しみや苦しみを背負って
受けておられる存在が 魂の親だということを
私は 信じています。

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