許す愛 (神様の心に触れたとき…1991年愛知県での説法より)
この地上を去った世界には、
「天国」と「地獄」という世界が厳然としてある。
「地獄」という世界は、昔から語られている「苦しみの世界」である。
「天国」という世界は、
「喜びの世界」である。
その通り。
しかし、その地獄をも、本人にとっては苦しみであるところのその地獄をも、
また黙って背負っておられる存在があるということを忘れてはならん。
地獄という存在を、そのままにして
背負っておられるということは、
「神がその苦しみを引き受けておられる」ということなのです。
人々のその苦しみは、個人個人のものではない。
神もまた、その苦しみをわがものとして背負っておられるのです。
その重荷を捨て去れば、どれほど身軽で、楽になることか。
にもかかわらずに、捨てずに、
今、何十億と地獄でうごめいている魂たちを見捨てないで、
それを抱き止めておられる。
人間は愚かであるから、自分が地獄に堕ちたなら
「神も仏もない世の中である」と、
「世間はすべて、自分を苦しめてきた。
そして死んだあとも、このような苦しみを自分に与えるのか。
神が愛であるならば、こんなことはありえない。
こんな不条理なことはありえない。
こんな暗い苦しみの世界が我が身に臨むとは、こんな不公平はありえない。
私だけがなぜこんなに苦しまなければならぬか」と訴えているが、
その訴えている人を抱いている、
抱きとめている存在があるということを、
この地獄の苦しみはまた、
神が「悲しみの涙」を溜めて抱きとめている存在であるということを、
世界であるということを知らなくてはなりません。
その数十億の苦しみや悲しみを、すべて背負っておられるのです。
それは本来の神の使命ではありません。
本来の計画ではありません。
人間たちが間違って犯した罪によりできた世界ですが、
それでもなお、抱きとめておられるのです。背負っておられるのです。
もし、みなさまがたのなかで、
数年、数十年後に地上を去られて、
万一、暗い世界に、地獄に行かれる方がいらしたとしても、
どうか、自分一人で嘆き悲しまないでほしい。
「みなさまがたの苦しみを共に苦しんでいる方がいる」ということを、
「その苦しみは自分だけの苦しみではない」ということを知ってほしい。
我が子が転びて、怪我をして、喜ぶ母親はいない。
我が子が池に落ちて、喜ぶ父親はいないのです。
万一、我が子が事故に逢って血を流して、
そして傷つかない親の心はありません。
神の目には、 そのように見えるのです。
私たち人間のめから見れば、相対的に見える人間の目から見れば、
「私たちを害して生きてきた、社会にとって有用ではなかった、有害であった人たちであるのだから、地獄の責め苦を受けたって当然であろう」
と言いたい気持ちも人間心としてはあるが、
神の心はそうではないけど
「池に落ちた我が子を泣きながら引きずり上げている」のが、その姿であり、
「血を流して泣いている子を抱きとめている」のが、神の姿であるのです。
まだそれが分からないですか
「人間だけの苦しみではない」ということを。
(子供を持つ経験は この神様の心の一端に触れることでもあるように思えます。)