周利般特の悟り…レレレのおじさんのモデル😳 箒で庭を掃き続け悟った仏弟子

ドンカンオさんからいただいたコメントで
パンタカ=周利般特が 天才バカボンのようにレレレのおじさんのモデルだったことを 教えられました。

この周利般特の話を 1990年代の説法で大川隆法総裁がされていたことは記憶にありましたが どの経典に掲載されているかなかなか探し出せずにいましたら 夫が見つけ出してくれました。



先生の 『信仰告白の時代』第4章 悟りの復権

からページを開いて

教学をいろいろと一生懸命やっていた弟子よりもむしろ、周利般特のほうが悟りが早かったーという話です。


周利般特は「阿羅漢」になったと仏典には遺っています。

と指し示してくれたのです。

夫は幸福の科学の本はほとんど読みません。

UFOや宇宙人、船瀬俊介さんらの本を次々に買ってくるような人なので少しは 幸福の科学の本も読んでみてよと言ったこともありましたが 関心を示してくれないので 今はもう無理に勧めることはしません😂

そう 夫は読んでないのに、私が見つけ出せなかった 法話が収録された経典を見つけ出すのは 夫なのです。

正直 ちょっと これには悔しかった。😅

この、1993年大阪城ホールで語られた内容は私自身が  もう一度 しっかり学んでおかないといけないものでした。

周利般特は自分の名前も覚えられないほど頭の悪い方で もう少しで破門されそうになっていたそうです。ところが

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ある日釈尊が「この男は、もしかしたら見どころのある男前かもしれないよ」と言われ 周利般特に「ここに箒があるから、この箒を持って落ち葉を掃いたり、ごみを掃いたりしなさい。そのときに『塵を除かん。垢を除かん』と繰り返し言いながら、箒で掃いていきなさい」と教えたのです。


そこで周利般特は「掃除をするんだな」と思って、それを続けているうちに、「ああ、人間も同じなんだ。心のなかにある塵や垢を除くことが大事なんだ」と悟ったのです。

周利般特という方は、みんなに見放されていたのに、「箒で庭を掃くように、心の塵を除くのだ」ということを教わり、それを実践しているうちに悟ってしまい、賢い他の弟子たちよりもずっと悟りが早かったーという話が遺っています。

 ただ どこまでがほんとうで、どこからが慰めかという問題は、もちろんあります。教えを学ぶことが苦しくて、音をあげていた人も数多くいたのでしょう。そのように単純なことで、悟りを得たと言われたことも、事実上あったわけです。

しかし、「庭の塵を掃くように、心の塵を除く」という教えがそれほど簡単で単純な教えなのかという、もう一つの疑問もあるのです。
これは、みんながばかにするようなレベルの低い教え、単純な教えなのかという疑問は、当然あってしかるべきなのです。

もし、それがほんとうに簡単で、誰にもできるような教えならばその後、二千五百年のあいだ、さまざまな弟子たちが行っていた仏道修行は、いったい何であったのか、という事が点検されなければいけなくなります。


「心の塵を除く」ということは、個人個人の問題に還元したときに、いったいどのようなことを意味するのでしょうか。みなさんの心の塵とはいったい何なのでしょうか。心の埃とは何なのでしょうか。

それは「鏡の曇り」にたとえられることもあります。明鏡、つまり明るい鏡も、曇りがあったり塵がたまったりすれば人の姿を映さなくなります。…
それと同じで、

人間は本来、仏の子として輝く仏性を持っており、生まれたときには澄みきった心を持っている

のですが、生きていくうちに次第したいに、さまざまなものが心に付着していくのです。

もともとの澄みきった心境、あるいは塵や垢がない状態とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

それを考えるときには、やはり、人間本来の姿というものを無視するわけにはいきません。みなさんは、この地上に生まれてくる前に、 実在界という霊界人間もおいて、一人前の人間として生きていたのです。

実在界の人間は本来、一定の時期が来ると、母の胎内に宿り、十月十日たつと赤ん坊として生まれて来るのです。
 そしてそのもともとは大人であった魂が、赤ん坊としては生まれ、肉体に宿って成長していく過程で、本来の自分のあり方、つまり禅宗でいう「本来の姿自己」を忘れていきます。あるいは自分の父母が生まれる以前の自分、父母が出会う以前の自分、要するに両親から生まれてくる以前の自分のというものを、人間は忘れていくのです。

本来の自己とは何でしょうか。


それは霊界で自由自在の生き方をしていた自分からです。その自分が、母親のお腹に宿り、生まれ、子供となって、だんだん成長していくうちに、もといた世界である魂の故郷を忘れていき、この世的なものの見方、考え方ですべてを見ていくようになります。

その途中には、もちろん親の家庭教育もあるでしょう。また、どのような学校に行き、どのような友達がいて、どのような先生がいたかということも影響するでしょう。さらに社会に出てからは、さまざまな会社や職業に進んでいきますから、其所で選るものもあります。こうして得た、ものの見方見方、考え方が、実は、いろいろなな歪みを伴っているのです。
そうした歪んだ目で見ていると、いろいろなものごとの判断が少しずつ狂ってきます。そして、自分自身の心のなかに、間違ったものが蓄積され記録されるようになるのです。…

受け取り手のものの見方、考え方に色眼鏡がかかっていると、世の中でいろいろなことを経験しても、全部違ったように受け取ることがあるのです。……………中略……………………

したがって 悟りとはいったい何かというと

「この世で生きているあいだにいろいろと染まってくるものがあるから、その汚れを、常に洗濯、クリーニングして、もとの真っ白い生地に戻す」ということでもあるのです。


人間として生きている以上、みなさんは毎日毎日、誰かと必ず関わり合いを持って生きているのです。したがって、ある意味においては、日々、まわりの人を汚染している可能性だってあります。

もし、みなさんが発信しているものが悪ければ、まわりの人を汚染しているのです。その考え方、その思いによって、その言葉、その行動によって、まわりの人を汚していることも現実にはあるのです。


そうすると、他人との関わり合いにおいて、まず大事なことは何でしょうか。 それは自分自身をきれいにすることです。

世の中をよくしていこう、あるいは他の人をよくしていこうという思い自体は尊いものであっても、他の人びととの関わり合いの出発点である自分自身が、もし非常に濁ったものであったならば、他の人を人びとにも悪い影響をを与えることが当然あるのです。

そうしてみると、毎日毎日、掃除や洗濯が必要なようになります。自分自身の心の洗濯が必要なのです。



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周利般特の悟りというのは 庭に落ち葉が落ちるように心も積もる毎日の汚れを掃除していくこと、日々心の洗濯をして、もといた天上界の澄んだ心を取り戻すものだったと思います。

心の汚れを取り除いた時に 元いた世界から神
守護や 仏の光が降りてくる、(段階があるとは思いますが  自らのうちに内在している仏の光が顕現してくる?ことも含めて)という悟りだったのでしょう。

 仏の教えを 知識として数多く学んでいても 頭でっかちになるばかりで、他人の粗は見えるのに自分の間違いには気がつかないなんてことがよくあります。(夫に対しての見方もそうかもです😅)

 それを ほんとうに気がついて反省できているかなのだと思います。

世の中をよくしていこうという 活動であっても 自分の心のなかに 塵や垢が溜まって 世界を色眼鏡で見てはいないか。頭でっかちになっていないか  ということを 周利般特は教えてくれています。

ドンカンオさんのコメントで31年前に説かれた主の説法を再び学び直すことができたことに感謝します。😊






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