「白い巨塔」自我と無我 財前医師 と 里見医師

山崎豊子原作の白い巨塔を 読んだことはありません。
ドラマ化されているものがいくつもありましたが それほど関心がありませんでした。

最近 2003年版の再放送をきっかけに
見ることになりました。

仏法真理の観点から  このドラマを見てみると気がつくことが数多くありました。
「自我」と「無我」についてです。


野心に燃えて 大学教授から さらに新しく設立されるがんセンターの所長へと登りつめようとする財前五郎

がん治療の研究をライフワークとし、研究者としても一流でありながら 患者に対しても誠実に向き合う 里見医師

財前が患者から訴えられた医療裁判では
同僚でもあり 同期としての友情も感じていた財前を敵に回す形で、
患者側証人として立つ 里見は 大学病院も追われ、がん治療の研究も続けることができなくなります。


幸福の科学で 大川隆法先生の説法には
「無我」の話がよく出てきます。

魂の心境の段階には
4次元の精霊界
5次元の善人界
6次元の 光明界
7次元の菩薩界
8次元の如来界
9次元の救世主の世界

という次元構造 も 教えられています。
6次元の世界には
唯物論や無神論では無いことを前提に

この世でも
あの人の業績は、大したものだ
人間業とは思われないと
人々から尊敬を受けるような人が
多く集まっていると言われます。

しっかりと 自分の才能を伸ばして
世の中に役だったと
言われるような人たちです。
職業的に
学者や医師 学校の先生 経営者などの 人を教え 導くような仕事について尊敬を集めていたいた人です。

 財前五郎は 田舎に母親一人を残し 財前家の婿養子に入っていますが それまで医学部生、外科医としての実績や研鑽を積んで 婿にと望まれるような能力ある人物です。

一方の 里見医師も その財前が一目置く優秀な研究者であり 内科医です。

この 自分作りの段階までは 必ずしも 
「自我」の存在を 必ずしも悪いものだと 大川先生はおっしゃっていません。

この世の中で 役に立たないような 人間が
「無我」の修行をしたとしても
他の人を救うとはできない  というのです。

自分の能力を伸ばしたいという 成長欲は
「自我」に基づくところが多いでしょう。

マスターの条件を考えるという法話のなかで
大川隆法先生は

最初は「自我の確立」「自己の確立」というものを目指していても、 やがて、その、゛自我の皮゛を破り、「無我」の境地に入らなければならないのです。もちろん「無我」であっても、「まったく自分がなくなってしまう」という意味ではなく、 いわゆる「真我」が現れてこなくてはいけません。「真なる我」が出てこなくてはいけないのです。この「真我」を別の言葉で表現すれば、「無私の心」ということになるだろうと思います。
あくまでも、自分がまったく自分がなくなるのではなく、もっともっと自分を大きく行かし切らなければならないわけですもそして 自分を生かしきるなかに「個人的な名誉心や利得心をできるだけゼロに近づけていき、自分自身を公のために使いきる」という気持ちを持たなくてはいけません。

真実の霊能者 マスターの条件より

「修行を始める前の段階から『無私』だけを目指す」となると「独活の大木」風でいまひとつ冴えないので、やはり最初は、一生懸命修行をなされたほうがよいでしょう。しかし、最後は、その修行が「無私」になっていくものでなければならないと思います。

真実の霊能者 マスターの条件より

このように説かれています。
もちろん これは 宗教指導者になるべく修行をしている人を前に説かれた教えでありますが、この世のなかでも普遍的な教えとして心にとどめてゆければと思います。

例えば
財前五郎も里見医師も  この 6次元の段階までは 自分を磨かれていたことは確かだと思うのです。

しかしその後の

7次元の 菩薩界に入る心境のところで 2人は方向が分かれていきます。

自分を生かしきるなかに「個人的な名誉心や利得心をできるだけゼロに近づけていき、自分自身を公のために使いきる」という気持ち

この世的な栄達のみを求めて 患者や 患者家族の心を顧みなくなった財前と
自分の職を失うかもしれないという立場に立っても真実を追求し 患者の家族の心を救おうとした里見医師

里見医師は「 自我」を離れて「 無我」の方向に 人生の道を進められたのだと思います。

そして、それは 職を失うことでもあり、家族まで 巻き込む決断になります。

マスターの条件の法話のなかでスパイダーマンの話を例に 大川隆法総裁先生は このように話されてました。


 例えば、私には霊能力がありますが、私が、周りから「霊の声が聞こえるんだって」とか、「天の声が聞こえるんだって」とか悪く言われても、大丈夫です。自分自身はそれを信じているし、「この道でやらなければいけない」となると思っているので、批判を跳ね返していく自信はあります。
 しかし、自分自身ではなく、私がたまたま好きになった人がそういう立場に置かれたらどうでしょうか。つまり、この世で普通に生きていて、この世的に、ある程度、評価を受けたり、尊敬を受けたりして、良好な人間関係を築いた人が、私と付き合うことによって、周りから「(霊の声が聞こえるような)変な奴と一緒になるのか」「付き合っているのか」などと言われるようになるわけです。やはり、私であっても、付き合っている相手がそういう被害を受けることには耐えられない部分はありました。……中略……「好き嫌いの問題」ではなく「天職についてこられるかどうかの問題」があったのです。

家庭人として 良心的に生きるという段階を越えた責任や 天命が下って来るときには とても厳しい選択を迫られることがあります。

そのときに 「捨てなければならない」ものがどうしても出てきてしまいますが、
平凡に生きている私たちにはその部分がどうしても理解できないこともあります。

財前五郎の生き方も 途中までは 自己を伸ばして外科医として患者を助けるというところまでは良かったのかもしれません。


この名誉心や利得心がある段階は天狗の心で止まってしまい 菩薩や天使の心である7次元の段階までは魂は成長できないのです。

さらに 天狗の心で慢心して人の意見を聞かなくなると 魔界や地獄界からのインスピレーションを受けることになってしまい 魂とは退化してしまうこともあります。

この6次元までの心境は まだ欲界と言われるような世界のようで この欲界からの輪廻転生は まだまだ心の修行が終わっていない段階であり、カルマの刈取りしての転生輪廻があるようです。

ところが  仏陀やキリストのような救世主の世界から降りる神霊は 救済やその時代に合わせた救済を説くために地上に降りるのであって カルマの刈取りの為に地上に生まれるのではないのです。

涅槃に入った仏陀が再度生まれることはないというのは カルマの刈取りのような欲界転生といった輪廻の軛からは 離れて自由で自在であるということなのです。



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