人々の喜びを自らの喜びとし 人々の悲しみを自らの悲しみとして欲しい
お読みいただいてありがとうございます。
スキをくださった皆様 ありがとうございます。
エル・カンターレ祭に参列してきました。
そのなかで
大川隆法総裁がご自身で歌われた曲
エルカンーレの願い
が披露されました。
伴奏のない 肉声のみの歌です。
そのなかでのフレーズの
一説がタイトルにあげた詞です。
自分を幸福にすることが
他の人々への幸福にもつながる
生き方をしてほしい
という詞もあったと思います。
30数年前の立宗から 変わらぬメッセージは
この世だけではなくあの世に帰ってからも幸福となる生き方を選びなさい
自分の幸福と他の人が共に幸福となる道を選びとりなさいということ
人からなにか得たいという愛を奪う生き方ではなく
愛を与える側に立ちなさいということだったと思います。
この世ですべてが終わりだと思う生き方や 神仏の目を意識しない生き方は 刑法で問われるような罪は仮に犯していなくても
ともすれば 自分の肉体生命や
自己中心的な 願望実現を優先してしまい
この世では 物質面で不足ない充分満足であったとしても
あの世に帰ってからが 暗い世界に帰ってしまうことがあるということを
数多くの霊界探訪で 現実のものとして見ておられたのでしょう。
大川隆法総裁は 前倒しで
何年も先の映画の原作や
作詞作曲などを手掛けておられます。
2004年には医学的には死亡しているといわれ
入院されていた病院で数年先までの月刊誌の巻頭に載せる心の指針を書き上げられていました。
今回の歌も おそらく2023年3月以前に創られていた歌だと思います。
数多くの説法や霊言も
まだまだ経典化されずに
眠っているものがあります。
人間の仕事ではありません。
しかし それは一歩一歩の不断の努力の結果でもありました。
断崖絶壁をよじ登るが如くの苦労が立宗後の数年間にあったと 最新刊
「なお一歩を進める」
第3章 天才と凡人の間で
のなかで説かれています。
この平凡のからの出発ー半自伝的ものだったので、昔の学生時代の友達とか親しかった友達に送られたそうです。
親しかった人には何人か献本で郵送したのですが、誰からも返事が来ませんでした。
今までは年賀状も来ていたし。電話もかかったりいろいろとしていたのですが、本を送った瞬間に、とたんにピタッと何も来なくなった、「えっ、これはどういうことだろうか」と思ったけれども、ショックだったと思うのです。十代から、ずっと年賀状とかが来ていたり、ときどき遊びに来たりしていたような人もいるのですが、それもみんな、返事がどこもおしなべて、誰からも来なかったのです。絶句したか、衝撃を受けたか、ショックで硬直したかは知らないけれども、「別の世界に行ったらしい」ということだけは分かったらしいのです。
「彼岸の世界ー三途の川を渡って向こうへどうも行ったらしい」という事だけはみんな分かったので、「どういうふうに付き合ったらいいかもう分からないということだろうな」ということです。
神からあなたが救世主だと告げられるー
召命を受けるというのは キリスト教のなかでも聞きますし、明治時代に神憑りになって 神事を為された 霊能者の方もいたでしょう。
しかし 東大の法学部を出て 社会的にはエリートされるような道から宗教の道に入るということは それまでの交際も交遊関係も 約束されていた未来もすべてを失うことだったのです。
しかし、2018年にこの説法をされた時に
入職された職員さんにとっては
総裁が幸福の科学を興された時の心境とは
もうかなり
離れて
大きな団体に就職するような感覚
でいたのでしょう。
「平凡からの出発」というのは…実際そんな気持ちだったのです。岸壁を登るというのはどんなベテランだって危険はあるし、頂上まで上がれるかどうか分からない状態です。 だから、一回一回、一期一会で登っている状態でしょう。
自分自身はそんな傑出して優れているという気持ちは、当然持っていなかったし、本当にワン・オブ(大勢のなかの一人)であったと思います。…
百人に一人ぐらいという感じだったら、一億二千万人ぐらいいたら、私ぐらいの頭の人は百二十万人ぐらいの人が日本にはいるということです。…
だから、それかららあとは努力のところなのです。努力した結果、何か実績が出てきたら、ー先ほどの安室さんではないけれどもー人は違うように言ってくれるかもしれませんが、やっているほんにんはまったく反んな気持ちはないというのがそっちょくなところです。
そういう気持ちが今の若い人とか、あるいは一部の幹部などにも、もうなくなっているのかなという気は若干します。
会社を辞めて宗教を起こすということが、どの程度リスキーに見えて、周りから見て、「もう、バカなことをするんじゃない」というように見えたかどうかというのは、たぶん今、もう分からないのではないかと思います。
立場上、早く上がったりするようなこともあろうかと思うけれども、「実際 知らないことがいっぱいある」と思って謙虚なところは残しておかないと、「恥をかきますよ、教えてくれませんよ」ということです。
だから、あまり、貴族社会みたいなものを自分で勝手に決め込んだりのあまり偏差値みたいなので、世の中を見たりすべきではないと思います。それは、本当にもう、伸び悩む結果に必ず終わります。つらいかもしれないけれども、やはり自我を抑える訓練はした方がいい。そうしないと、要するに学ぶことが少なくなるのです。
「謙虚であれ」というのは、別に、「おまえの値打ちを下げろ」というふうに言っているわけではないのです。「あなたの値打ちはもっと低いぞ」と言われているわけではなくて、謙虚でないと入ってこないのです。
人間というのは、やはり仕事ができてもいいのだろうけれども、仕事ができるだけでも駄目だし、学歴も立派だったら偉いのかもしれないけれども、それだけでも駄目なのです。それだけでもなくて、人間として人情の機微というか、人の気持ちが今の分からないとー人の気持ちが分かったり、人がこちらの気持ちを分かってくれていることを理解する気持ちがないと駄目なのです。
やはり、このへんがみんな弱いと思います。だから。「エリートだけれども、嫌われる」という人はいっぱい出てくるので。このへんはもうちょっと人間味がいるのです。
内部の方々 すでに信者になっている人々への
戒めであると思います。
組織は大きくなってくると 組織内だけの論理で動いたりしますけれども それが本当の神仏の心にかなっているものかを いつもいつも問いながら 歩まねばならないのだと思います。
自団体のなかの人々だけのために
神の心があるのでありません。
全人類への愛のために存在している神の心に 少しでも 我々の心が近づけますように。