親から押し付けられた信仰と子供が感じるとき
幸福の科学でも 聞くけれども 創価学界の 2世3世でもよく聞く話で アンチになった2世 3世のブログをよく見ます。親の世代はそれなりの理由があって入信に至ったわけですが 物心つかぬうちに 宗教団体に登録されてしまった子どもたちは 学童期 少年期 になると 自分の家庭が 一般の家庭とは違うと感じ始めます。
例えば 日曜日の度に 宗教施設に通ってお話を聞きに行ったり 宗教活動しているのが普通であると思っていたのに 友達の家庭では 全くそんなことはしていなくて 遊園地に遊びに出掛けたり 家でのんびり過ごしたりします。
親は 宗教活動に熱心で家を空ける事が多く寂しい想いをすることもあります。又、伝道活動家で友達のお母さんを誘ったり勧誘することで 友達との関係が難しくなったりします。
献金やお布施で家計からお金が出ることでお父さんとお母さんが揉めたりすることを目にすることもあります。
信仰している親は 神仏の存在や 目に見えないけれども 尊い価値あるものの為に時間とお金を費やしていると信じていて 、子供達をも「悪」なるものから護られると思っているのです。
しかしながら、今の世の中の多数の価値観と異なる価値観を持つ親と 学校生活 社会生活の子供たちが直面する価値観はあまりに違っていて子供たちは苦しみ始めます。
この苦しみに気がつかないで 親が 信仰のなかで学んだ教義からくる価値観で子供を縛ろうとするときに それが時に「真理裁き」に繋がってしまいます。言葉で子供を叱っていなくても 親が心のなかで 自分の行動を批判的に見ていることを子供は感じています。
この「裁く」目はどうして生じてくるのかと考えたことがあります。「裁く」者も 本当はまだ真理を体現していないのではないか。
自らも又 未熟なゆえに 自らの未熟さを意識させる存在に苛立ちを覚えてしまう。親が信仰の世界で本当に安らぎを得て愛を体感し 生活の全ての中に 神からの光が流れ出るような毎日を送れていたら、子供は 安心できるのだろうと思います。
親の価値観と社会で常識とされる価値観に違いがあっても、自らも信仰の道を歩もうという子供と 信仰を手離してしまう子供とはどこが違うのか考えることしきりです。
信仰は 押しつけられて身につくものではありません。親の信仰はあくまでもきっかけであり 選びとるのは子供自身なのです。
どれ程 親が素晴らしい教えだと信じて訴えても 今世だけでは 伝わらないことも甘受して 幾転生でも待ちましょうか。