見出し画像

「ごめんね」「いいよ」 は大切だが万能薬にあらず

我が家と学童で 「ごめんね」 についてよく考える。色んな人と一緒に考えたい。
あっちに行ったりこっちに行ったりするし、まとまり切ってもないが、断片的に書いてみようと思う。

「ごめんねしなさい!!!」

我が家。
1番目(5歳)が、2番目(3歳)とのケンカで、

「まだ、ごめんねしてないよ!!!」
「早くごめんねしなさい!!!」

なんて言うことがある。
時空を超えて「あの時のごめんねしてない!」というしぶとさもつきである。
自分の何かを勝手に使った、壊した、触った、もしくは嫌な言葉を言った、無視した、などと言うことがだいたいの火種だ。

しかし、案の定、ずいぶんな剣幕で言われたら、2番目から「ごめんね」は出ない。泣き出すか、頑なに首を横に振る。

また、たとえ2番目が「ごめんね」と言えても、「嫌だ!!!」とすぐさまぶった斬るのだ(←これは以前に「まー、ごめんねと言われたってすぐには許せないこともあるよねえ」などと話していた私の影響がすくなからずある…)

ごめんね は潤滑油? 

「ごめんね」と言い、「いいよ」と許してもらう。
うん、大事。
大事な営みだ。

日本で暮らしているとなぜだか「ありがとうとごめんなさいを言える人になろう(なりなさい)」的なフレーズによくよく出会う。

人間は弱い。1人では生きられず、共感し、協調し、協働しながら生きる。その人数や範囲は個別色々あるが、これも周囲となるべく良好な関係を築きながら生きようとするためだろうか。

相手が嫌だったり悲しい思いをさせてしてしまった時には、たとえわざとでなくても、まずは「ごめんね」。そして「いいよ」で許す。これが言えると確かに良好な関係が築けそうな気もする。ごめんねには人間関係の潤滑油のような役割があるのかもしれない。硬く言うと社会のマナー?規範?常識?だからか、幼少期からこの流れを反復して練習する(しているようだ)。そして、決まり事などに敏感な我が家の1番目は真面目に遂行しようとする。自分は嫌な思いをさせられたのだから(相手はよくないことをしたのだから)、相手はごめんねを言わなきゃいけないんだ!と。

謝れないのも苦しい

「ごめんね」は重要だ。
人間関係を築く中で潤滑油のような役割がありそうだ。
しかし、普段学童で見ているの子どもたちの中には、謝れない子たちがいる。そんな子たちが他の子とのトラブルになった時には、人一倍見守りや仲介に時間を要し、最終的に嫌な思いをした側が歩み寄ったり、時にはタイムオーバーとなってしまうこともある。(だけでなく、謝らずとも子どもたち的に解決することも多々あり、これはめちゃくちゃ大切にしたい)

自分が悪かったのはわかっているけど、謝れず、困っている。
そうして謝れない状況が続くと、周りからの眼差しも難しくなってく。
「ごめんね」がなんでもかんでもいい!とは言い切れないが、謝れない、謝ることが選択肢にないと、苦しいようだ。

…何を隠そう、私も謝れない1人だった。
保育園に通う頃、謝れないことが苦しかった。

うう、恥ずかしい。
ああ、なんか言えない。
そして言えないままに日常へ戻ってしまい、モヤモヤする。

しかし、小学1年生の時。

時はきた。

校庭にあったタイヤの遊具で、同級生とぶつかってしまった私は、意を決して「ごめん」と初めて謝った。恥ずかしさでポーッとしたのを覚えているが、それ以上に「言えた…ごめんを言えた…!」と内心喜びがあった。この段階では、相手の反応がどうか、などは完全に置いてけぼりだが(笑)、選択肢の中に「謝る」ことが加わりホッとしていた。

タビノネ学童での私。ミスした時は盛大にきちんと謝る。大人だって間違えるし、変なことになっちゃうよ。失敗しちゃう(先日も手作りバター作ろうと生クリーム買ったのに成分確認不足で前日にバターができないことが発覚したし)。でもさ、その後どうするかってのも大事じゃん?…という下手な見本としても、少し大袈裟に謝っている。謝ることは子どもにとって大変だけど、頑ななプライドや恥ずかしさが、少しでも柔らかくなればいい。

いいよ は誰のものか

「ごめんね」と言われれば、もう1人が「いいよ」と言う。
許して次に進む。一見良さそうだが、これが「いいよ」と言ってくれないと終わらない感じ、になっていたとしたら変だ。

懸念されるのは、最初に嫌な思いをした人のモヤモヤはそのままに、「いいよ」を言わされちゃいないか、ごめんねだけでなく今後の話や解決策を作る機会を奪われちゃいないか、ということ。

そそくさとごめんねして、いいよで許されて、スッキリしたい人のタイミングに、嫌な思いや不安な気持ちそのままに付き合わせることになっていないか、ということ。

「いいよ」は「ごめんね」を言った人のものではない。

もちろん間に入った大人のものでもない。

以前、「自分がされたらどう思う?」→「嫌だと思う」とパターン化されていることについて書いたものと少し似ている。大人の望む「早い解決」を子どもたちは知っていて実行するのだ。それで言うと、この「いいよ」に関しては、嫌な思いをさせられた方が、嫌な思いにちゃんと触れてもらわずに言わせれてしまっている可能性がある。「ほら、もう〇〇くん(ちゃん)はごめんねしたよ?」などと急かされて。

「ごめんね」「いいよ」の効果

「ごめんね」と言い、「いいよ」と許してもらう。

この流れは、人によって、または間柄によっても、効果や意味も変わってくるようだ。

ある子は、この流れに少し固執する傾向があるけれど、この流れを踏むことでうまく自分の気持ちを切り替えることができる。

学年が下の子に「ごめんなさい」と言われた上級生は「おう、いいよ、気をつけてな」と少し余裕を見せた年上として、鼻高く受け止めてくれる。下級生にとっては許してもらえてそこが安心の場所となる。

元々仲の良い子たち間で行われる場合はどうか。
もうこの喧嘩終わりにしたい、早く仲直りして遊びたい、という “きっかけ” として機能し、子どもたち自身も学び、自ら選択している流れでもある。
この子たちの場合は「ごめんね」→「いいよ」→「よっしゃ遊ぼうぜ」となる。

しかし、初めて会った人や、そもそも関係の悪い人との間では、うまくいかないこともある。そして、間に入った人(子ども同士のトラブルに入る大人)によっては、形骸化したり、より歪ませることもありうる。

大人の望む形で、無理やり「仲直り」させられた、と言う経験が残るかもしれない。その子の状況や周囲との関係性、トラブルの背景を見ないまま、ただ流れを急ぐと、諦めの時間と化していく。

ごめんねが仕返しに?

我が家の1番目にせよ、学童の中のごめんねいいよの流れに固執する子や、絶対ごめんね言わせたい子たちの言葉、姿勢を観察していると…

君が悪いことしたんだから今すぐ反省しろ!
こういう時は謝らなきゃいけないんだ!
そんなこともできないのか!
僕はこんな嫌な思いをしているんだからそっちは謝れ(=嫌なことしろ)!
そうじゃなきゃ嫌な気持ちは治らない!!うぎゃーーー!!!

相手への苛立ちから「ごめんね」を言わせる=仕返しとなっている場合は少なくない。自分と同じくらい?嫌な思いをしてほしい、という気持ちがあるようだ。(んー。ここでは触れないが、違う場面でもこういう感覚が随分と子どもたちから見受けられる…)

それほどに嫌だった原因は?今の気持ちは?どうなのか。観察して、聞いていくしかない。
それ怒るのは当然よね。本当は相手を思いきりぶん殴ってやりたい?そんな気持ちになるのは仕方ない。気持ちは受け止める。相手がまだごめんね言えないかもしれない。もしかしたらその前に違うコミュニケーションエラーがあったかもしれない。だけど、今、相手にそのまま暴力や暴言としてぶつけるのではく、違う形にしよう。例えば移動する。書く。叫ぶ。破る。叩いて良さそうなものを叩く。走る。歌う。寝る。食べる。時間を置く。そんなやり取りをしながら、相手にも嫌な思いをしてもらわないと許せん!から、ほぐして脱却していく。

(もちろんそもそもが悪意のあるものだった場合、大人はNOと言う必要があるので、相手の方とも話す。ここで書いている話の主なものは、伝え方が未熟だったたり、相手の意図や状況がわからなかったり、表現方法が少ないことだったりで起きるトラブルの時のこととして見てください。)

正解はないからこそ形や流れで安堵せず最善を探る道

「ごめん」をただ言わせる仕返しではなく、落ち着いた時にでもいい、そこに「ごめんね」がもしなかったとしても「何が嫌だったのか、次はどうしてほしいのか」「次はどうしていくのか」という話をお互いにしていく経験を大切にしたい。

同時に「ごめんね」が言えることも大切にしたい。

「ごめんね」も、背景を掘り下げ、今後の約束をすることもない、その子達だけの解決方法(お互いご機嫌になる方法)も大切にしたい。

私、あれ嫌だったんだよ…
そういうことか、ごめんね…
今日はもうやめとこ…
ごめんねはいらないけど、次はこうしてほしい…
まーひとまず今日は遊ぼっか…
明日学校であやまるわ…

どんなやり取りになるかはわからない。
子どもであろうが大人であろうが、人間同士の関係なのだから、絶対の正解はない。

「ごめんね」「いいよ」は大切だ。
だけれど万能薬ではない。
大人が扱いを間違えると毒薬にすらなってしまう。
大人が先回りして、形と流れだけで、解決したぜ!と繰り返していると、じわじわとその子たちの安心感や、その子たちの力を奪っていく、恐ろしい毒薬だ。

…と言いつつも

時間がなかったり、お金がなかったり、余裕がなかったり、嫌なことが続いたり、明らか理不尽でしょと思うことだったりすると、そうはいかないことも多々あるのが暮らしです。まーぼちぼちです。

2025年も子どもたちと遊び転がりながら、できる範囲で頑張ってなんとか生きのびましょう!


年始から長文、乱文、誠に申し訳ありませんでした!!!!!!

いいなと思ったら応援しよう!