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本当に怖い人

日々、小学生たちと話していると「怖い人」について聞くことが多々ある。

「あの人怒ると怖いんだよ…」
「あの先生大声ですぐ怒るからめっちゃ怖いよ!」

などなど、確かに「怖い」。
そこに出てくる「怖い人」の多くが、よく怒り、その場を大声で制し、不機嫌で子どもたちをコントロールしようとする人たちだ。

たとえ、その時怒っていなくても、その人がいるだけで子どもたちは怒られることはしないでおこう、と思うものだ(大人だってそう思う)。

逆に言えば、その「怖い人」がいなければ、
「…まあいいか!どうせいないし!怒られないし!」
と、なるのが自然だろう。
不機嫌で怒鳴るだけの「怖い人」は、軽くあしらえてしまう存在、と言い換えることもできる。子どもの頃から、いらぬストレスはいらぬ。

自分の小学生時代もそうだったと思う。
しかし思春期、青年期になるとこんな風に思い始めた。

本当に怖い人は、いつも不機嫌で怒鳴る人なんかじゃないぞ。
機嫌が良くても、怒らなくたって怖いんだ。
なんなら、その人がいなくたって怖いのだ。

なぜ怖いか。

なぜなら、その人を信頼しているから。
なぜなら、その人に希望を感じるから。
なぜなら、その人を尊敬しているから。
なぜなら、その人は私を見ているから。
なぜなら、その人が私を信じてくれるから。

人によっては、「その人」が親や兄弟姉妹、友達かもしれない。
人によっては、「その人」が神や仏やお天道様かもしれない。
人によっては、「その人」は歴史上の人物かもしれない。
人によっては、「その人」は学校の先生かもしれない。

今のところ自分の人生には、どうやら2人ほど怖い人がいる。
そして、その2人に怒鳴られたことはない。たぶん。
しかし、緊張感がある。全くもって恐怖による緊張感ではない。

怒鳴り散らすあの「怖い人」たちよりも、
断然こちらの人たちの方が怖い人たちだ。

言葉として矛盾するようだが、
人間の自律の過程や、自律と呼ばれる状態の中には、実はその人にとっての怖い人が含まれている気が70%くらいする。(完全に誰の影響も受けずに考えたり判断したりはできない。わかりやすいところも、わかりにくいところも他の存在に影響されまくりなはずなのだ。)

そして、人間の自律の過程や、自律と呼ばれる状態の中には、怒鳴るような「怖い人」は含まれていない気が300%くらいする。

自分は誰かの怖い人になれるのか。
はたまた「怖い人」になってしまうのか…。

〈追加〉
子どもたちは「怖い人」からそう簡単に離れられない。家の中やその他生活圏内にいる近い大人が「怖い人」かもしれない。逃げたくても自力で逃げることはそう簡単にできない。
子どもたちには「怖い人」から守られる権利があり、大人たちは守る義務がある。恐怖でコントロールする権利はない。

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