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現存12天守の一角。魅力をつなげ!ぐるり宇和島城
こんにちは!うわじま市民ライター2024の直也です。
現存12天守の一角として、愛媛県の宇和島市を象徴する宇和島城。宇和島駅から徒歩10分の小高い山から、その堂々たる姿で街を見守っています。
今回、宇和島市観光物産協会さん主催の宇和島ボランティアガイド養成講座に参加しました!
※今回の記事は、ボランティアガイド養成講座でいただいた資料をもとに執筆させていただいています
観光客から大人気の宇和島城ガイドツアー
今回参加したのは宇和島城の「ボランティアガイド養成講座」です。
お城山の入口にある宇和島市観光情報センター「シロシタ」では、旅行客向けに宇和島城のガイドツアーが提供されており、そのボランティアガイドに興味がある方を対象に実施されました。
宇和島城のツアーは団体を中心にとても多くの問い合わせがあるとのこと。団体だけでも年間80件近くのガイドツアーを実施していますが、ガイドの数が不足しており残念ながらお断りせざるをえないことも多いそうです。現在のツアー催行実績以上に、宇和島城のガイドツアーの需要はあるのです。
僕は宇和島城に登ったことはあったのですが、「現存12天守の1つである」ということくらいしか知識がありませんでした。
宇和島市のシンボル的な存在である宇和島城を、遊びにきてくれた友人や観光客の方に自分の言葉で案内できるようになりたい!と思い、参加しました。
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宇和島伊達家の歴史
宇和島城と呼ばれる前は板島丸串城と呼ばれ、築城の名手として知られる藤堂高虎(今治城を作った人!)が本格的に天守を築きました。
その後、宇和島伊達家9代にわたる居城となります。江戸時代に始まる宇和島藩は、仙台の伊達政宗にルーツがあり、政宗の長子秀宗が、大阪冬の陣の功績を認められ、この地を徳川家康から賜りました。
その後、2代藩主宗利のときに大改修がなされ、今の天守の姿になっています。
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仙台伊達家もこれらの家紋を持つ
当時の天守が現在まで残っているのは全国でも12しかなく、それが「現存12天守」なのです。
宇和島城の天守が残っているのにはいくつかの理由があります。
まず1番大きいのが天災や空襲を免れたため。戦時期に市街地2/3が空襲にあいましたが、天守は運よく残りました。また、各地のお城は明治期に廃城令で取り壊されましたが、宇和島城は新政府の管理下で軍事拠点として使用されたため、取り壊しを免れました。
さらに、明治22年に「幕末の四賢侯」伊達家8代当主・宗城が政府から城を買い戻し、守り継いだことも非常に大きな要因です。その後、昭和24年に伊達家から宇和島市に寄付されました。
宇和島城の石垣に隠れた秘密
お城マニアが着目するポイントの1つに、石垣があります。
宇和島城の石垣からは、宇和島の地域ならではの特色や歴史の移ろいを感じることができます。
天守へ向かう散歩道でまず目にするのは長門丸の石垣。長門丸は城内でも最大の郭で、直線上に約50mある横に一番長い石垣です。
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城内の石垣で区切られた各エリア(郭)は「○○丸」と名前がついています。石垣にも「○○丸」と名前がついていますが、その名前が指すのは下から石垣を見るときに立っている場所ではなく、その石垣の内側(天守側)のエリアです。
海の近くのお城ならではの特色もあります。石垣の石をよく観察すると、石に窪みがあったり、丸い斑点模様のようなものが多くついています。
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宇和島城の石垣の石は、海から持ってきているものが多く、海の力で削られていたり、貝がついていた名残でたくさんの跡が付いていたりしているのです。
さらに道を上っていくと見えてくるのが本丸石垣です。三の門跡の石垣は異なる時代を一度に観測できる場所です。
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写真を見ると何か違和感を感じないでしょうか。
全体をぼんやりと見ると、右上から左下にかけて石垣の境目が見えてくると思います。
右側半分は石の形がばらばらで、不規則に積まれている一方、左半分は長方形に近い形が多く、より規則的に積まれています。
右側は野面積みと呼ばれる石の加工技術が発達していなかった頃の石垣。左側は加工石材を用いる「打込(うちこみ)ハギ」で、野面積みと比べて石の断面が直線的で長方形に近い形の石が多く見られます。
この石垣は一度部分的に崩れ、時代を経て補修されたため、このように異なる時代が地層のように隣り合っているのでした。
他にはない宇和島城天守閣の特徴
江戸時代に入ってから建て替えられ、現在の姿となった宇和島城。いくつか宇和島城ならではの特徴があるのですが、なんだと思いますか?
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1つ目は、鉄砲狭間(さま)がないこと。
鉄砲狭間とは、お城の中から敵に向かって銃を撃つときに銃口で外を覗くための小さな四角い穴のことです。一般的にお城には防御機能として狭間が用意されているのですが、宇和島城には1つもありません。
2つ目は、立派な破風の内側にスペースや窓がなく、ただの装飾であること。
破風とは、三角形の屋根のような形のものです。裏側に破風の間と言われるスペースが用意されることが多く、防御のときにそこから敵を返り討ちにすべく攻撃をします。
宇和島城は、唐破風や千鳥破風と呼ばれるデザインの破風がついているのですが、防御機能がセットになっておらず、装飾性が高い破風になっています。
3つ目は、堂々たる玄関構えです。
そもそも天守とはどういった役割を担うでしょうか?答えは、攻めてくる敵に対して応戦すること、守りを固めるための建物です。
見てわかるように、どうぞ入ってくださいと言わんばかりの立派な玄関が、どっしりと天守閣の真正面に構えています。他のお城の天守の玄関口は、ぐるぐると回ったりしてやっとこぢんまりとした木戸にたどり着く、というようなスタイルが多い中、非常に特徴的な点です。
ここまで読んでいただくと、もうお分かりでしょうか。
宇和島城は戦国時代後の太平の世を象徴するお城なのです。
もちろんお城山全体として基本的な防御機能は持っていますが、天守の装飾性が高く、敵の侵入を防ぐという意識があまり高くないのです。
城主の住居や政治の仕事を行う「御殿」と、防衛や権威の象徴である「天守」は明確に区別されますが、御殿建築の要素を宇和島城の天守に多く見ることができます。
そうした江戸の平和な時代背景を感じ取ることができる点、実用性よりも意匠性に優れる点、現在の姿に至るまでの軌跡としての歴史を石垣など各所に見て取れる点が宇和島城が人々を惹きつける理由なのかもしれません。
季節や時間ごとに変わるお城の表情を
ガイド講習会は快晴のもと行われました。
天守閣が目に入ったとき、バックの青空とのコントラストがとてもきれいで、気づいたらスマホのシャッターを切っていました。
SNSには、朝の陽の光に照らされた宇和島城の写真が多くあがっています。
これから春になると淡いピンクの桜が宇和島城を彩るでしょう。
時間のうつろい、季節の変化にあわせて、宇和島城はさまざまな顔を私たちに見せてくれます。
まだ行ったことがない方はぜひ足を運んでみてください。
行ったことがある宇和島市民の方も、きっとまだまだ知らない宇和島城があると思います。(ガイドも大募集中とのことです!)