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恋と愛、他者と自分

恋人たちは幸せそうですね。実際に幸せの渦中にいるのでしょう。
ところで、「恋愛」という言葉は、恋と愛が同じ座標軸の上にあるかのような、錯覚をさせます。
まるで、「恋が熟すと愛になる」かのような。

恋は初対面でもできます。
「恋に落ちる」というくらいですから、一瞬にして生まれることもある情感なのでしょう。
テレビ画面の中の人にも恋をすることもありますしね。
対面していなくても、(一方的ではあっても)恋に落ちることはあるようです。

そして、恋は一気に燃え上がって、その後は単調減少(ずっと減り続けること)、右肩下がりになることが多いようです。
一つの理由は「飽き」です。
次第に相手に対する「新鮮さ」が失われていって、飽きてきます。
「新鮮さ」は、恋の重要な構成要素のようです。
そしてそれは、時間の経過に従って「右肩下がり」となります。「美人も三日見れば飽きる」という失礼な物言いを聞いたことがありませんか?

「飽き」に加えて、あれほど恋しかった人のことを、「知れば知るほど幻滅」していきます。
「こんなはずじゃなかった!」と。

私たちは、相手について何も知らないとき、自分勝手に「知らない部分、見えていない部分」に穴埋めをしてしまいます。
「たぶんこんな人だろう」という全体像をイメージしていないと、コミュニケーションや行動をうまく選択できないからでしょう。
その「(自分で勝手に)穴埋めした部分」は、その後の接触で、「真実を知っていく」ことになるのですが、この両者が通常食い違っていて、次第に幻滅することになるのでしょう。

この点は、相手が恋人でなくても同様です。
自分の周囲にたくさんいる利害関係者(社内ならば上司や部下や同僚)のことを、ほとんど何も知らないので、知らない部分を自分勝手なイメージで埋めています。ちょうど、空間だらけのジグソーパズルのようですね。
ただ、恋の場合は、自分勝手なイメージは「煌(きら)びやかな理想像」で埋めるので、「知らない部分を知れば知るほど幻滅する」方向にしか変化せず、恋心は単調減少する(下がり続ける)しかないのです。

要するに、相手が「赤の他人(あるいは単なる他人)」であることが、恋に落ちる重要な条件です。
つまり、恋は「他人に対してするもの」なのです。

これに対して、愛という言葉は、親子愛や兄弟愛のようにも使いますね。
これら2つは、明らかに恋とは異なります。
時には、愛の対象は、人間でなくてもよくて「愛犬」という言葉を使いますし、さらに時には、生物でなくてもよくて「愛車」などとも言いますね。

したがって、愛情は「自分の一部として大切に思う心」くらいにイメージすることができます。

ところで、自分は「自分の肉体」の中に留(とど)まっていません。
自分の外部に「染み出して」います。
もちろん実際に染み出しているわけではなく、そう感じているのです。
たとえば、自分の母親や子供は自分自身ではなくとも、あたかも「自分の一部」のように考えていて、しかも大切に思っています。「身内(みうち)」という言葉もありますね。
大切な身内を失うと、「身を切られるようだ」「断腸の思い」などと表現することも、その対象が「自分の一部」「身内」だからでしょう。

「身内」は「他者(別人格)」であっても、「赤の他人」とは明らかに異なります。大切に思う気持ちにも濃淡がありますからね。
さらに、「自分の外部」であってしかもその対象を「自分の一部」であるかのように大切に思ってさえいれば、人間でなくてもよくて「愛犬」、生物でなくてもよくて「愛車」となるのです。
愛の対象とは比較的長い時間を共有していて、相手(対象)のことをよく知っていることが多いので、恋心のように急激に幻滅することは少ないのです。
もちろん、相手の人格(性質)が変わってしまったら、愛情が急速に冷えてしまうことはあるでしょうが。

したがって、愛とは「自分(の一部)に対する感情」である、といえるでしょう。

以上のことから、恋愛が成就するのは、「恋が熟して愛に変化する」というように「一本の線路」でなくて、「平行に敷かれている二本の線路」のうち、まず最初に「恋の線路」が盛り上がって、相手のことを知り始めて次第に「右肩下がり」になって幻滅しきってしまう前に、その相手と時間を共にすることで「自分の一部」として大切にし始めて「愛の線路」がボチボチ盛り上がってきて、恋から愛へと切り替わる、そんな場合なのではないでしょうか。

ともあれ、世の恋人たちに、幸あれ!(*^_^*)

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