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【映画評】クリント・イーストウッド監督『インビクタス』(Invictus, 2009)

 冒頭で白人と黒人の間を颯爽と駆け抜けた車が、終幕では入り乱れる群集の中で全く前に進めずにいる。停滞を是とすること。トライのための独走ではなく、人と人とがぶつかり合い前にも後にいけないままに折り重なるのを許容すること。それがイーストウッドの「赦し」ではなかろうか。
 『インビクタス』のみならず、イーストウッド映画において「車」が所有者でない第三者の接近を許す瞬間を追ってみたい。といっても、『センチメンタル・アドベンチャー』、『ルーキー』、『マディソン郡の橋』、『目撃』、『ミスティック・リバー』…そして『グラン・トリノ』と枚挙に暇がないか。あるいは『硫黄島からの手紙』ではっきりと顕在化したように見える「手紙」の存在とその役割について(『グラン・トリノ』の「遺言」、『インビクタス』の「詩」)思いを巡らせてみるのも一興か。

【補遺】『群像』3月号の『インビクタス』評。御大(蓮實重彦)は本作のマンデラを『グラン・トリノ』のコワルスキーが「倒立した映像として」捉えている。なるほど片や「白人」の人種差別主義者、こなた「黒人」の人道主義者であるわけで、そう考えると両作品のその他の要素も合せ鏡的に見えてきて色々興味深いのだった。

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