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徒然なるままに #母と娘

母親が苦手だ。
実家に帰るのが苦手だ。くつろげる安心できる場所ではない。

毎週、実家の母に自分が作ったおかずを届けるため、一人暮らしの部屋の鍵を閉めて出かけるとき、自転車にまたがるとき、行きしなのゆるい坂道を登るとき、たとえ陽の光と冷たい風が心地よい爽やかな天気だとしても、ほの暗い気分におそわれる。


実の娘が言うのもおかしいかもしれないが、母親は苦労人である、と思う。

母が幼い頃、両親(私の祖父母)の暴力を伴う激しい喧嘩が頻回にあり、母は必死に止めるか、物陰からこっそり様子をうかがっていたそうだ。

祖母が食堂の商売を始めてからは、母は店の手伝いをする傍ら、歳の離れた妹(私の叔母)の面倒もみていた。
「私は店の手伝いをしていたけど、妹は遊んでるだけだった。妹は甘やかされて育った」
と、母はいつも言う。

就職して、いくつかの転職も経験し、しばらくはバリバリ働いていた母だが父と出会い、結婚して、父の願いで専業主婦になった。

これが母を長く苦しめることになったのだと思う。父と結婚したこと。働くのを辞めたこと。


母の初めての子どもである、私の兄は厳しく躾けられた。
兄の幼い頃、後になって母が語るには自分は子育て鬱、怒り鬱だったとのことだ。ヒステリーのように怒っていたそうだ。また、幼少期の兄は身体が弱く、すぐに熱を出す子供で、本当にたいへんだったらしい。しかも、放浪癖のある父が、母とまだ小さい兄をおいて家をあけることが多く、いわゆるワンオペ状態だった。


その後産まれた私は待望の女の赤ん坊だった。らしい。抱っこされればすぐ泣き止み、体調も崩さない。
よく笑う。
兄と違って。

私が母に対して負の感情を出そうとする気配を察すると、母はよく言うのが、
兄を厳しく育て過ぎたから、私は甘やかして育てた。腫れ物を触るように接してきたつもりだ。
(私が当時受けていた)高校のカウンセラーさんに話まで聞きに行ったんやで?と。

兄と比べて、兄と違って。
私は甘やかされて育った、兄よりましなんだ、だから私がだめなんだ。甘やかされて育ったくせに。
私はずっとそう思っていた。 

ほんとは比べられるのがいやだった。兄がどうであろうと、私が悲しかったり寂しかったり、辛い思いをしたのは、それはそうなのだから。

そういう言い方をする、考え方をする母が苦手だ。

兄の子育ての頃を知らないので私には比べようもないが、私の幼い頃からも、母はずっとピリピリして神経を尖らせていた、ように私は肌で感じていた。
何か母の意に反することをしてしまうと、ヒステリーのように母の怒りが噴火し、鋭い言葉で叱りつけられる。
気がつけば、私は母の顔色をとても気にするようになっていた。

母に遊んでもらった記憶は申し訳ないくらいにほとんど、ない。
映画に連れて行ってもらったことは一回あって、それはよく覚えている。指輪物語を見に行った。あまり楽しくはなかったが、母といつもと違う場所に出かけられたことはうれしかった。

物心がついてからでいちばんよく覚えている母の姿は、換気扇の下に椅子を持ってきて、私たち子供に背を向けてタバコを吸っていたこと。私からは顔が見えなかったから、母がどんな表情でタバコを吸っていたのかは今も分からない。

私の父親である、夫の存在が母のストレスであったことは間違いない。
父は家にいつかず、朝早く家を出て仕事に行き、翌朝早く帰り、家族が起き出す前にまた家を出る。家に帰って来ないことも、多々あった。休日でさえ、父が家にずっといることは、記憶の限りない。

仕事が多忙だったというか、仕事にとりつかれているようだった。

結婚を機に仕事を辞めてほしいと父に頼まれ、母はバリバリ働いていた仕事を辞した。家中を綺麗に整え、まめまめしく手の込んだおかずを毎日毎日作っていたのに、父親が出来立ての温かい料理を楽しむことはほぼなかった。
父親の分だけ、ラップがかけられ、冷蔵庫にしまわれる食事。父親は誰かが起きる前にそれを食べて出ていくので、おいしい、ありがとう、などの感想を聞くことはなかった。

それは確実に母の心を蝕んだと思う。

結局、父親の放浪癖は治らなかった。1ヶ月以上家に帰らず、出勤もせず、連絡もとれず、母により行方不明届が出されていた。
遠方の海沿いの町で発見された父親は、警察署まで迎えに駆けつけた母に言った。

母と子どもたちが、自分という金魚についてくる糞のようだ、と。その後、両親は離婚した。



母はずっと、女性も子育てしながらでも働きやすい職場に就職するのがいい。と言っていた。なおかつ、安定している職業。

母が結婚を理由に、専業主婦にならざるを得なかったことの裏返しだ。

母が選んだ学習塾に通い続けた。高校は、母が兄に行ってほしかったとこぼしていた学校に進学した。兄は兄で、母がよく口にしていた他の高校に進学していた。

兄は大学進学と同時に家を出て一人暮らしを始めたが、母は私には家にいてほしいと思っていることを、私はよく知っていた。だから、家から通える範囲の国公立大学を選んだ。

就活でも、母が金融機関を絶対に受けなさい。と言うため地元の主たる金融機関には全部エントリーした。受からないとは分かっていたが、受けて不合格にならないと母が納得しないと考えたゆえの行動だった。

就活の結果としては母の長年にわたる口癖だった、耳にたこができるくらい聞かされ、母が羨んでいた、いわゆる安定した職業についた。


実家に暮らしていた当時、在籍していた部署の上司がかなり頼りないという話を母にしていた。

その後に、病気・休職の原因となった、次に異動した先の部署にいた上司について打ち明けると、「あんたが前の部署で上司に失礼な態度とってたから、そんな部署に異動させられたんちゃうのん??」
と、母は剣呑な目で言い放った。その言葉は私の言動に対する不満を孕んでいた。

ショックだった。悲しかった。

5年間在籍していた前の部署では、私は有休を使うことも片手で数えるほどしかなかった。職員からも客からも、泣かされることもあったが、必死に働いていた。電話も窓口もいちばんに出ようとするのを怠らなかった。
上司に対しては上司としてしっかり立てていたし、接していた、と自分では思っている。
心の中で、頼りないなと思うことすら悪いということなのか。

そのときの自分の精一杯で頑張ってきたという事実を、母の言葉で一瞬にして汚されたような気がした。

その汚れは、綺麗にしたくてもなかなか拭えきれなかった。

何気なく話した仕事の愚痴ですら、母のなかでいろいろ加工されていくのが怖い。

そういう思考にいきつく母のことが、怖くもなった。

母に何か、打ち明けることが怖くなった。それが自分にとって大切なことなら尚さら。


私が親しくしている職場の人についても、
2人乗りの赤いスポーツカーに乗っているということ(母が自分の同級生である車屋に聞くところ、その車に乗ってる人はヤンキーだということから)、その人が以前に他の職員(ちょっと身体に支障があるせいか、窓口部署なのに窓口に出ない。はっきり頼んだら出てくれる)に対してサボっていると愚痴をこぼしたこと、などから、 
お付き合いするのはよく考えなさい。
親しくするのはやめなさい。
私は、あんたに幸せになってほしいんや。
と何度も言われた。

私が親しくしている人を、その人のことをよく知りもしようとしないで、数個の事実だけで悪い、付き合うべきではない、と排除しようとする。
心がざらざらした。



私は就職して数年経つまで、服は母が選んで買っていた。
母のセンスによって選ばれた服が、私の服だった。

だから、自分で選んだ新しい服や靴を買って始めて身につけて母の前に現れるとき、無意識のうちに彼女の反応をうかがってしまう。母によりチェックがなされ、評価がくだされるのを知っているから。

彼女の反応が、とても怖かった。
母は分かりやすく反応する。母が好む私に似合う服装なら顔をゆるめて褒めそやす。
母が気に入らないものであれば能面のように表情がなくなり、私を無視するか、服装について小言をもらす。


サービス休日出勤のときに、スカートをはいていたら、職場に行くのにそんな浮ついた服を着て、、と咎められ、ジャージのような服装だと、そんなだらしない格好で、、と尖った声で言われる。
ほんのりシアーなトップスを職場に着ていったら(肌が透けるほどではないオフィスカジュアルの範疇)、そんな格好で職場に行くなんて常識がない。どうかと思う。言いたくないけどあんたのために言ってるんやで、と言う(職場で確認したがオッケーだったし、きれいなブラウスやな、と褒められた)。

職場だけにとどまらず、休日でもシアー感のあるトップスや、袖が短いフレンチスリーブのトップスを着ていると、そんな服で異性と会ったらあかん。下品やで。と、顔を歪め嫌悪感の滲んだ声で言われてどきりとした。

そういう事情があるので実家にいるときは、母の好む、母に文句を言われないための服装選び、服の買い物をした。自分の好きなファッションを楽しむことはできなかったし、母との関係を良好に保ちたいのであれば、それは暗黙のうちに許されなかった。

今でも、実家を訪れるときには、母の好む色、形、素材のものを選ぶように気をつけている。


休日には、夕飯作りの手伝いをした。家中のフローリングの拭き掃除をした。私は、いつも終い風呂で風呂掃除をした。洗い物は私の仕事。

土曜の夕飯は毎週私が作っていた。何か予定があったり、誰かと遊んだりする約束をしていても、夕飯作りのために16時頃までには帰り、スムーズに作れるように前日の夜や朝に下ごしらえをする。
誰かと会うときは厳しく門限が設けられ(22時までに帰ること)、それを破ることはなかった。母を怒らせたくなかった。



進学、仕事、服装、時間の過ごし方、

いつだって母は、自分の正しいと判断したものをそれとは言わなくても私に選択させていた。与え続けていた。

私が言いなりになっていたし、母の判断に甘んじていた、とも言えるだろう。だが、家で、実家で、波風を立てずに生きていくためにはそうするしかなかった。そうせざるを得なかった、と思うのは私の口実なんだろうか。逃げなんだろうか。


家族、親、ということを理由に、
見えない紐で、ゆるやかにでもたしかに縛られていた。
くるしかった。息苦しかった。息がうまくできなかった。
たとえ自室であっても家の空気が心地よくなかった。
自由がほしかった。
何をするにしても無意識のうちに母の目、母の反応を気にしてしまう。

ただ、逃げたかった。


現在私は、数年前に実家を出てから一人暮らしをしている。

実家を出るに当たって、適度な距離をとりたい。と話したら、母が激昂した。怒りで目が三角になっていた。
あんた、適度な距離ってどういう意味!?!?

バカ正直に自分の気持ちを話した私が愚かだった。甘かった。

それ以来、母には自分の気持ちを、あまり何も正直には話さないようにしてる。



一人暮らしを始めて、ようやく息がしやすくなった。 
身体の緊張がとれた気がした。
部屋で思うようにくつろげるようになった。
好きなファッションを楽しめるようになった。
誰かと自由に時間を気にせず会えるようになった。

実家で、自分がひどく窮屈な思いをしていたのでは、ということに気づいた。

母の、目を反応を怖がらないように、気にしないようになれた。

長年の束縛から放たれた、ような気がした。

これがいわゆる親離れというものなのかどうかは、分からない。



今回の休職に至る苦悩も、自傷が止められないことも、入院をしようという決断も、その過程は母には話さず、職場の親しくしてくれる方々にきいてもらった。背中をさすってもらった。支えてもらった。諭してもらった。

母には、母の気持ちを傷つけない程度に、最低限のことだけ話す。




母が死んだら私は事実上、ほぼ天涯孤独になる。濃い血の繋がりのある家族は、あとは兄だけ。
兄は転勤族だから、あまり頼りにはできない。 でも、母が死んで、また私が入院するような機会があれば保証人には兄に頼るしかないかなと思う。

母の妹である、叔母がいるが親しくはない。
叔母は、祖父の遺産を全て自分のものにした、ということになっている。
祖父の看病で一時期、叔母は母達と一緒に住んでいたが、大小の諍いが絶えず、母も祖母も、叔母に対して辟易としていた。

祖父が亡くなり遺産の問題が起こり、母と叔母の間に確実な隔たりができてしまった。
祖父の通帳などを、何の相談もなく、全て叔母が持って行ってしまったのだ。

祖父の遺言がなかったか、もしくは叔母が持っているためか、祖父の遺産については、きわめて曖昧な問題になっている。

母も祖母も、叔母が持ち逃げした、としか言わない。
法律上は彼女達にも相続権があるのだから、持ち逃げしたなんて、そんなことまかり通るのか不思議なのだが、不問に付されている。叔母も最近離婚してたいへんらしい。

それ以来、母は叔母には必要最低限の事務的な連絡しかしていないそうだ。

母と叔母、姉妹の仲はよいものとは言えなくなった。

母も、母の妹も離婚し、祖父母の仲は悪く、父親は実家と絶縁状態だった。

私は近親者に、仲のよい家族をついぞ見たことがない。

そんなもの存在するのか、疑問でもある。




母は癌を患っている。

20年近く前に乳癌が見つかり、摘出手術をした。癌細胞の摘出は成功したが、手術の際に神経か何かにに障ったらしく、今も後遺症に苦しんでいる。
数年前には肺癌が見つかった。大きな大学附属病院に何クールか入院し治療をした。私は働いていたが、仕事を終えてから電車とバスを乗り継ぎ、見舞いに何度も通った。
治療は数年かかったが、肺癌は完治しなかった。骨転移してステージⅣのまま、今は小康状態を保っている。骨転移による疼痛が激しく、長く歩くことはできず外出の際には杖を使っている。日常生活動作は何とか可能だが、身体が不自由なため、時間がかかる。1日の大半を布団の上で横たわり過ごす。


実家を出てから、私は毎週おかずを作って届けている。 
病気の母を置いて出ていったことの贖罪のつもりだ。
早朝出勤、残業していたときは、朝の6時頃におかずを玄関に置いた。実家を出てから、入院していた期間を除いてこの習慣をキャンセルしたことはない。私のせめてもの償いだから。

 

祖父が亡くなり、その後、今度は祖母が入退院を繰り返した末に施設入所した。母の身体では祖母の介護は困難だと判断され入所にあたる優先順位が高かったのか、母の希望通りの施設にすんなり入れた。

現在、母は一人暮らしには広すぎる家で、一人暮らしをしている。強いられている。息子が、次は娘が出ていき、祖父は亡くなり、祖母は施設入所した。祖母は、おそらく家に戻ることはできない。母は、自分が祖母を介護することができれば、、と何度ももらしていた。でも自分の身体では無理だと、諦めて納得しようとしている。


そんな状態のは母に一人暮らしをさせて、私は親不孝な娘だと思う。本当は、私が実家に戻り、少しでも母の生活を支えるべきだと思っている。

でも、できないし、戻りたくない。

母の近くでは、私はうまく息ができないから。

私は、母の心身より、自分の心の安心を優先させている。




病気を抱えているため、おそらく母は平均的な寿命より早く亡くなるのでは、と思う。

遺言の話も、もう聞いている。

母が死んだら、悲しい。とかよりも、
母が死んだら、私は本当に一人ぼっちになってしまうことへの恐怖のほうが大きい。結局のところ、自分のことしか考えられない私は、なんて冷たい娘なんだろう。

母が苦手だ。今は、分かり合う努力もしようと思えない。
そんなエネルギーがない。そこに費やすエネルギーを持てないでいる。
今は、まだ。


母のことを憎んでいるのではない。 
恨んでいるわけでもない。
母一人で、育ててもらったことを感謝しているし、病気の身体のことは心配だ。

ただ、母のそばにいる私を、私は好きになれないでいる。母のそばにいる私は、母が望んでいる私をしている。
それが私の心を穏やかにさせてくれない。

誰だって、その場そのときに応じて誰かを演じている。
人間が、社会的に生きるとはそういうことだと思う。

親子関係だってそう。

母の前で娘を演じる。それは当然のことなのに。

なぜ私は上手くできないんだろう。こういう所が、休職している原因にもなってるんだろうか。私は、何かが欠陥しているのではないか。
当たり前のことが当たり前にできない、当たり前にする努力をできない。

そんな脆弱な自分が、嫌になる。


母の前では母の好きな娘を演じる。 
それだけのことなのに。
演じようとすれば苦しいし、演じているときは心のどこかが死んでいるような心地になる。


だから、母の近くにはずっとはいられない。
私が、私の心が、うまく息ができないから。息がうまくできないと心が死ぬ。


どこまでも、本当に、どこまでも私は自分中心の人間なんだな、と思う。

出来損ないの娘。


ごめん。こんな娘で本当にごめんね。ごめん。ごめん。

不出来な娘でごめん。薄情でごめん。

育ててもらって、たくさんたくさん恩返ししないといけないのに、ほとんどなにもできなくてごめん。
誕生日の1月に、大好きな大谷翔平選手のポスターカレンダーを毎年贈ることくらいしかできてない。あと、母の日と毎週のおかずと。


母が丈夫で健康なら、旅行もプレゼントしたかった。今みたいに食が細くなってなければ、おいしいレストランや、料亭にも一緒に行きたかった。

私がもっともっともっと強ければ、実家でも、もっとたくさん一緒にごはんを食べたかった。

弱くてごめん。

自分のことしか考えてなくてごめん。

ここまで書いたけど、
自分が、一体どうしたいのか、分からない。


母と時間を共にするのが怖い、
でもそんなに多くの時間は、残されてないから少しでも一緒の時間を共有するのが親孝行なんだとも思う。

ねえ、私は、どうすればいい?

何が正解なのかな。

どうしたらいいのか分からないよ。

後悔は、したくない。 
自己満足かもしれないけど、母の希望を、私がしんどくなり過ぎない範囲で、叶えたい、なんておこがましいか。

今は難しいけど、歩みよるのをやめたくは、ない。

諦めたら、全部終わってしまう。

何をどうしたらいいのか、まだ分からないけど、もうちょっと頑張ってみようかな。

いろいろあったけどさ、いろいろ思うところはお互いあるけどさ、心から一緒に笑い合いたいよ。

いつか、そんな瞬間が訪れるのだろうか。

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